ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

口には言えぬ‥‥

   〽 心に燃えて いたけれど

     口には言えぬ 頃だった‥‥

  この歌詞は、NHKラジオ歌謡「りんどうの花咲けば」出だしの一節である。

 

 同級生のK子(妻)と、心安く話ができるようになったのは高校2年夏のころ。

 図書室で本を読んだり、校庭に続く里山をそぞろ歩いたり、いつしか胸の内に彼女の

存在を、強く意識するようになっていった。

 彼女の気持ちも同じであった、と打ち明けられたのはずうっと後日、婚約してからの

こと。

 

 ときめくような学園生活の日々は、あっという間に過ぎて行く。

 

 好きだ――と言えぬまま、卒業式。「さよなら」ひと言いうチャンスもなく、校門を

後にしたのであった――。

 

 

 「あれから40年」綾小路きみまろ)――いえいえ、さらにプラス30年――。

 

 

 妻「きょう何日?、何曜日?」

 私「22日、火曜」

 妻「今日なんか、ある」

 私「通院も、来客予定も、何もないよ」

 1分もたたないうち

 妻「きょう何日?、何曜日?」聞き返してくる。

 たった今、自分が聞いたことさえ、すっかり忘れているのである。

 

 毎朝、こんなやり取りから一日が始まる。

 

 妻の認知症に気づいたのは4年前。ほどなく〇〇クリニックの「物忘れ外来」で、

アルツハイマー認知症と診断された。

 

 「父さん、今朝は、何食べるの?」

 「いつもパンでしょ。ハムあぶって、目玉焼きでいいか」

 「うん、それでいい」

 

 妻は、食事の支度が全くできなくなってしまった。

 今や、毎日三度三度私の仕事である。

 

 時計は11時を回った――どっこいしょとやおら腰を上げ、お昼の支度を始める私を見

ながら、ガサガサとおやつ袋を抱える。

 「母さん、もうすぐお昼だよ」

 「おなか空いたもん‥‥」

 こんな調子。子供より哀れである。

 

 好き嫌いも多くなった。気にいったおかずだと、私のお皿にまで手を延ばすが、気に

入らぬと「もう、おなか一杯」と早々に箸を置く。そして直ぐせんべいの袋に手が延び

る。

 

 半年前には、黙って一人、スーパーへおやつを買いに出かけて帰り道を忘れ、数キロ

れた隣町に迷い込み、”行方不明”捜索、警察官も出て、半日ひと騒動した”実績”があ

る。

 妻の行動には、うっかり目が離せない。

 

 「熱中症にご注意を。エアコンを適正に。こまめに水分補給を‥‥」テレビのアナウン

スを聞きながら、ふいっと外へ出て行く気配。

 「母さん、外は暑いよ、散歩はあかんぞ」つい大声で呼びかける。

 「わかってる!」言葉を返しながら、やっぱり表の様子を見渡さないと気が済まない

らしい。

 うっかりしていると、知らぬ間に裏庭へ回って草むしりを始める。

 「やっぱり暑いわ」汗びっしょりでうちの中へ入ってくる――。

 

 やさしく、おだやかに、解いて言い聞かせているつもりだが、なかなか聞き分けて

くれない。

 時には「そんなこと、分かってるわ」ヒステリックに反抗してくる。

 

――妻は認知症なんだ。よく分かっていながら、私だって、だんだん腹立たしく、こら

え切れなくなってくる。(ばか者!)(ボケ!)思いっきり怒鳴ってみたい。

 でも、これは禁句。絶対、口にしてはいけない。ぐっと、こらえる。

 

 楽しかった高校時代を思い出し、気を鎮めようと努める。

 

 「さよなら」も言えぬまま校門を後にした“寂しく、悲しい”卒業式の日であったが、

私とk子は「見えない赤い糸」で繋がっていたようである。

 6年、7年‥‥赤い糸は細くなったり、消えそうになったりしながらも、ぷつんと

切れることはなかった。

 

 いろいろあったけれども、とも白髪の今日(こんにち)である。

 

 認知症の妻をいたわり、見守ってゆくのは、私の務めである。

 

 はるか遠くに過ぎ去った青春のかの日、k子と里山を歩きながら口ずさんだNHKラ

ジオ歌謡「山の煙」が、すうーッとよみがえる。

 

 〽 山の煙の ほのぼのと

   たゆとう森よ あの道よ‥‥

 

 夕飯の支度を始めながら、鼻歌交じりに、私が歌い出すと、居間のソファでくつ

ろいでいた妻の胸にもよみがえったか

 

 〽 ‥‥幾年消えて 流れ行く

   思い出の ああ夢のひとすじ‥‥

 

 と私に唱和する、やさしい声が聞こえてきた。

 

 そっとのぞいてみる。

 

 妻の小さな口元が、あの日のまま、生き生き輝いているように、私には思えた。

 

 

 ※ 「山の煙」NHKラジオ歌謡 昭和26年放送

   作詞 大倉芳郎

   作曲 八洲秀章

   唄  伊藤久男

 

 ※ 「りんどうの花咲けば」NHKラジオ歌謡 昭和29年放送

   作詞 鈴木比呂志

   作曲 八洲秀章

   唄  鳴海日出夫