ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

養母(はは)のレシピ

 台所の戸棚で探し物をしていたら、奥の隅から、厚紙に書かれたレシピが出てきた

 菓子箱の厚紙をB5の大きさに切って、ボールペンで走り書きされている。亡き養母

の書いた字だとすぐ分かる。クリップで3枚止めてあった。

 「酢豚」と「マーボ―豆腐」のレシピで、(手帖)と出所まで書き添えてあった。

(手帖)とは「暮しの手帖」のことで、養母は創刊号から定期購読し、書架に並べて自

慢にしていた。

 

 養父の病気・手術のため、30代半ば、不本意ながら新聞社を退職した私は、養父

の営む日用雑貨の卸し業(と言っても実に小規模)を引き継ぎ、妻は養母の化粧品

小間物店を継ぐことになった。

 一時期であったが、近隣の会社など職場に出張して、化粧品を売らせてもらった。妻

とメーカーから派遣される美容部員を、私の運転するライトバンであちこちの職場に送

り迎えし、売り上げ増を図った。

 

 このように、私と妻が外売に出かけている間は養母が店番をしてくれた。

 私どもが美容部員と担当セールスを伴って帰宅するのを待ちかねて、養母は「今日は

店にこんなお客が来て、こう対応し、これだけ売った」と真っ先に話してくれた。

 

 養母は、お客の合間に、ある日は「酢豚」を、別の日は「マーボー豆腐」を作っ

て待っていてくれて、美容部員、担当セールスともども夕餉の食卓へ誘った。彼ら

また「毎度遠慮なくご相伴させていただきます」と、いつも養母のつくる夕食を期

待しているようであった。

 

 養母は、時には「冷蔵庫には鶏肉しかなくて‥・。どんなお味になったや

ら‥・」と言い訳しながらも、それは「酢豚じゃなくって″酢かしわ″ですね。実に

美味しいですよ。おばあちゃんは店も頑張ってくれるし、ありがたいことです」と

持ち上げるセールスの言葉を期待している笑顔であった。

 

 大正生まれの養母は、「気位の高い人」であった。

 ふだん、種がわりの弟妹らから「ねえさん、姉さん」と持ち上げられている女学

校、看護学校上がりの、T紡績で保健婦や舎監の経験を持つ“えらい人”であった。

 ――それだけに、商売1年生の養子に、負けてはいられないのだろう‥・、なんて私

も当時は邪推していたようだ(確執だったかも‥・)。

 

 その養母も逝って早や6年。今は、養母との快いと感じた部分だけを思い出すことに

している。

 ――養母の″気位を込めた″とさえ感じたあの夕食の「酢豚」は、とても美味しかっ

た。中華料理店の味と比べても遜色なかろう――そんなふうに、あれこれ。

 

 妻が、昨年夏ごろから急に気力・体力ともに疲れが目立つようになり、私との会話も

時々心もとなく感じて、はっと不安が胸をよぎる。

 

 長い年月、妻は寸暇を惜しむかのように働き通しであった。さすがに疲れたのであ

ろう。そう思えば、いささかでも私が妻をカバーするほかない。

 まず毎日の食事。総菜なんて、これまでほとんどまともに作ったことがない。

 しかし、そうも言っておれない事態になってきたようだ。厨房に入ることに決めた。

 養母の時代と違って、今はパソコンを開けば、どんな素材を使ったレシピでも簡単に

探せる。不慣れな自分でも手におえそうな簡単なレシピを選べばいいのである。

 

 「美味しいね」と和む妻の口元を想像しながら、フライパンと格闘する私の今日この

頃である。

 そして、在りし日、養母が調理の「酢豚」を囲んで談笑する私ども夫婦と化粧品販社

の社員を眺めて、満足そうな養母の柔らかな笑顔が、なぜかふと思い浮かぶのである。