ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

あの人は、今どこに・・・

 「お父さん、たまには3人でお昼 外で食べない?」娘が電話して来た。

 「いいなあ。――母さんも一緒に行くだろう」と妻に同意を求める。

 「じゃあ、迎えに行く」と娘。

 

 娘は、M市の自宅マンションから車で40分余。私と妻を乗せる、ととんぼ返り。M市内のレストランに案内してくれた。

 有名な老舗料亭に新しく併設された、くつろいだ雰囲気の中で和食が楽しめるお店であった――。

 

 この横町から五六十メートル出ると、その辺りは古くからの歓楽街である。

 遊郭が賑わっていた時代は知らないが、今もバーやスナックが軒を連ね、赤い灯青い灯の夜の町には変わりない。

 

 

 

 I新聞社へ通勤していたころ、同じ方向へ帰る同僚と私鉄電車をこのM市で途中下車し、屋台やスナックへ立ち寄ることもあった。

 

 ある夜、I新聞の編集局内に支局を置いているK通信社の支局長に誘われ、M市のスナックへお供した。

 とある店にはいった途端「――あらぁ。高校卒業以来初めてお目にかかります‥‥」

 愛想よく出迎えられた。

 「――‥‥」

 とっさに口がきけなかった。よく見ると、T子さんである。

 「ここ私の叔母の店。最近手伝ってるの」

 「そう‥‥」私は微笑み返すのがやっと。

 

 支局長はきょとんとして、すぐ後ニヤッとほおを緩めたようである。

 

 私の方はすっかり固くなってしまった。誘ってくれた目上の人を差し置いて、T子さんへ親しそうに話しかける気にはなれず、その夜は気まずい思いを胸に、次の店へと支局長に従った。

 その後、T子さんの店を再び訪れることはなかった。

 

 

 T子さんは、同じ高校の1年下。丸顔で色はやや黒い方だが、小柄で、誰にも愛嬌を振りまいているようであった。

 

 私は3年生の初め生徒会長に選ばれていたので、校内では顔を知られていたようで、T子さんも廊下ですれ違った時など、ニコッとはにかむように微笑んでくれたのを覚えていた。

 

 

 夏休みにはいる頃、T子さんから自宅にラブレターが届いた。

 驚いた。

 白い封書の内容は、先輩を尊敬している。つき合ってほしい――といったことばが連なっていた。

 

 

 そのころ私は、生まれて初めて、同級生のK子に心を燃やしながらも口には出せず、ただの勉強友だち、話友だちとしてつき合い始めていた。K子とT子さんとは同じテニスクラブだから顔見知り。

 

 

 私はT子さんの気持ちだけはありがたくいただくことにし、手紙の返事は書かなかった。

 その後、校内で何度かT子さんと行き合うことがあったが、お互い「やあ」と微笑みかわす程度で、卒業してしまった。

 

 

 そして数年後のあの夜、支局長のお供で、たまたまのぞいたスナックでT子さんに出会ったのであった――。

 

 

 私は、おやじに似て酒は弱く、職場の忘年会や同僚とのつき合いで飲んでも、じきに苦しく眠くなる方で、ふだん晩酌などほとんどしない。

 

 

 新聞社をやめ、養父の商売を継いで十数年たってから、知人が「M市で飲む機会があったが,T子と言う女から、Nさん(私の名)の知り合いなら、今度自分の店を持ったから一度顔を見せてほしいと伝えてくれと、頼まれてきたぞ。気が向いたら寄ってやりなよ」と冷やかされた。

 

 

 T子さんのことなど全く忘れていた。彼女まだ水商売やっているんだ。変わっただろうなぁ。お祝いがてら訪ねてやってもいいんだがな――と思ったけど、車で行ってはたとえ一杯の水割りも飲めないし、電車に30分も揺られて行くのも億劫だし――なんて胸の内で言い訳しているうちに、T子さんのことは忘れるともなく忘れてしまった。私は、妻子ある身でもある。

 

 

 

 ――娘との楽しい昼食を終わり、レストラン向かい側の駐車場へ歩きながら、あの頃の表通りはもっと旅館や飲食店が密集していたけど、表通りから一筋はいったこの老舗料亭の通りは、とても閑静であったのに――。

 

 T子さんは、今もこの町のどこかにいるのだろうか。

 私と一つ違いだから、やはりおばあちゃんになっているだろうなあ。いい伴侶を得て世帯を構え、子や孫に囲まれているのかも。それとも生まれ在所へ帰っているのだろうか‥‥。

 

 

 (――時は流れる、ってことかな‥‥)呼べど帰らざる歳月をあきらめ、そっと懐かしみながら、娘の運転する車に身をゆだねた。 

彼岸のお墓参り

 明け方、尿意を我慢してうつらうつらしていたら、いやーな夢を見た。

 

 

 雨上がりのぬかるみを、昔ながらの荷車が近づいてくる。

 見ると、愛犬のチワワが体に荷綱をかけられ、泥まみれになりながら、懸命に荷車を引っ張っている。

 

 「マロン、お前が、なぜ?」と呼びかけたが、振り向きもしないで行ってしまった――。

 

 何とも痛ましい、やり切れない思いで目が覚めた。

 

 

 どうして、こんな夢を見たのだろう。老いぼれたせいだろうか。

 

 午前中はいやーな気分を引きずっていたが、そのうちにぬかるみの愛犬の姿が、在りし日の父が泥まみれになりながら田んぼの代掻きに励む姿に見えてきた。

 

 

 父母は、朝早くから夜遅くまで野良仕事に勤しみ、老いた祖父母を労わり養い、私ら男二人女二人の4人の子供を育んでくれた。

 あの頃の農家の仕事は、男も女も重労働の日々であった。

 

 私が就職して2年後、父は胃がんを患い44歳で亡くなった。

 

 農業を継ぐはずであった長男の私が勤めに出てしまったものだから、弟が私に代わって農業を継ぎ、母を助けて、幼い2人の妹を育て上げてくれた。

 

 母は長年の苦労の蓄積から病を得たが、何とか克服し90歳まで生き抜いてくれた。

 

 父も母も、老後の余生など楽しむ暇もなく逝ってしまったのであった。

 

 

 今私は、ささやかながら穏やかに余生を送らせてもらっている。

 傍ら、両親に親孝行できず、まことに申し訳ない気持ちを持ち続けているのである。

 

 

 秋の彼岸の23日午後、妻を誘い、生家の父母やご先祖の墓参りに出かけた。

 

 今さら詫びても仕方ないが、「おやじさま、おふくろさま、親孝行できずにごめん」両手を合わせ、改めて心静かに冥福を祈った。

まぼろし?の善行‥‥

 JR西日本の駅員さんが勤務中、酒に酔って寝ていた女性を救護室に連れ込んで乱暴したとしてクビになったあげく警察に逮捕されたという新聞記事が目に触れた。

 

 昔から「人の世に盗人と痴漢は尽きぬ」とか言われるが、いつの時代にも、良からぬ気を起こすやからは絶えないようである。

 

 新聞紙面では、善行(美談)記事と言うのも時々見かける。

 善い行い―道徳にかなった行い(広辞苑)が善行であろう。

 

 新聞記者になりたての頃、一日も早く、一本でもいいから、自分の書いた原稿を紙面に拾い上げてもらおうと、それこそ四六時中神経を張り詰めて、耳寄りな話題を漁っていた。

 

 自宅の最寄りの駅から、I新聞本社のあるT市までは、私鉄電車に1時間ほど揺られて通勤していた。

 

 ある日、社内に回ってきた専務車掌は高校の同級生。

「やあ、久しぶり。まあ、来いや‥‥」と社内が空いているのをいいことに、私を車掌室のそばへ誘った。

 しばらくはクラスメイトの近況などしゃべり合っていたが「お前、記者してんだったなあ。じゃあ、こんな話記事にならんか?」

 

 彼の話を聞いてみると、つい先日、特急に乗車勤務し、社内を回っていると二十歳前の女性客に、前席の男から嫌がらせを受けて困っている。助けてほしいと訴えられた。

 

 その中年男は酒気も帯びているようなので、彼は腰を沈めると男の耳元に「いい加減にしろよ」と周りに聞こえぬ低い声で注意した。

 彼は高校の柔道部で鍛えた大柄なたくましい体であるから、相手もビビったことであろう。

 

 

 念のため、その女性を車掌室近くの空きシートに案内し座らせ、女性の降車する駅まで見守ったという。

 

「いい話じゃないの。記事になるよ。」

 

 車掌の彼から、女性はI市の観光旅館○○の娘だと名乗っていたと聞いたので、私は早速電話でコンタクトを取り、本人を自宅に訪ねて事実を聞き「記事にしてもいいですね」と念を押す。

 

 

「あの時は本当に親切にしていただき、車掌さんには感謝してます。どうぞ記事にして褒めてやってください」と笑顔で送り出された。

 

 彼の所属する列車区の上司にも会って出来事を話すと「それは結構な話。会社の表彰の対象になるでしょう」と喜んでくれた。

 

 彼の顔写真を付けた記事は「親切な車掌さん」だったか、大きな見出しで紙面を飾った。

 

 

 ところが、1週間ほどたって、私を名指しで編集局にかの女性から電話がかかってきた。

 

 受話器を取ると「あの記事で迷惑している。」と、これはこれは大変お冠。あの日の笑顔と打って変わり、大いに怒っていなさるのである。

 

 なだめて話を聞いてみると、あの当日彼女は通っている専門学校を無断欠席、0市へ買い物に出かけた帰りの出来事だったので、ずる休みが親せきや先生、友人にばれてしまい、大目玉を食うやら冷やかされるやら大変迷惑している‥‥。(それが昭和30年代の世間一般の道徳意識であったろう。)

 

 「それは相済まぬ結果になって、申し訳ないことです。」こちらはとにかく丁寧に謝って電話を切ってもらった。

 

 

 善い行い――と思っても、それを公にすると、その波紋はあちらこちら思わぬところに広がるものだなあ‥‥つくづく反省させらた。

 

 

[取材の合間(同行カメラマンが写す)]

 

 

故郷の廃家

 「故郷は遠きにありて思うもの‥‥」(後略)

 

 これは室生犀星の「小景異情」という詩の冒頭部分で、内容は寂しい詩なんだそうである。

 

 

 私のふる里は、市町村合併で今では私の住まいと同じ行政区域内――同じ市内である。

 指呼の間と言ってもいいほどの距離で、車をゆっくり走らせても二十数分で実家に着く。

 

 

 旧盆中の道路混雑を避けて先日、妻を同乗させ、墓参に里帰りした。

 

 実家の数百メートル前に、大きな真っ黒い和牛がどっかり横たわるような重厚な山並みが、昔のままの姿で出迎えてくれたようで、懐かしかった。

 

 近くても、ふる里はいいものだ。

 

 

 昼飯を馳走になり、実家を守る弟夫婦と世間話は尽きず、数時間あっという間に過ぎた。

 

 

 亡父の姉が嫁いでいたOO家(親戚)の後継ぎが先ごろ他界し、後には住む人もなく、閉ざしたままであるという。

 

 

 OO家は男4人、女1人の子供があったが、みんな県外に出て一家をなし、4男が家を継いで2人の女の子を授かっていたが早くに妻と離婚、男手一つでその娘2人を育て上げて嫁がせ、後は男のひとり暮らしであった。

 

 

 訃報を伝えても駆けつける兄たちの姿もなく、近くに住む濃い親戚だけで葬儀を済ませ、位牌は祖霊社(神式葬儀社)に永代供養をお願いしたという話である。

 

 

 子どもの頃、「〇〇兄ちゃん、遊んで‥‥」と、私より一つ年上の3男を訪ねると、奥の居間にどんと腰を据えた父親が「おお、〇〇(私の名前)来たか」とニッコリ迎えてくれたもの。嬉しかった。

 

 その父親の没後は、長男から次々と家を出て行ってしまい、末弟の4男がやむなく残って家を守っていたのであった。

 

 

 敗戦後の「家」の崩壊――時代の流れ、とはいえ、私どもの年代にはちょっと心寂しい気がする。

 

 

 帰りの道すがら、村の中ほどに立つOO家に目をやれば、玄関も雨戸も閉ざれたままであった。

 

 

 「幾年ふるさと来てみれば‥(中略)荒れたる我が家に住む人絶えてなく――」(故郷の廃家)を思わず口ずさんでいた。

 

心の罪・業(ごう)・心の傷‥‥

 広島は8月6日、長崎は8月9日、ともに原爆投下(被爆)から73年の「原爆の日」。

 

 原子爆弾が永久に使われないことを、ひたすら祈るばかりである。

 

 澄み切った夏空を眺めていると、私は藤山一郎さんが歌った「長崎の鐘」(古関裕而作曲。昭和24年発売)を思い浮かべ、思わず口ずさむ。

 カラオケでも歌う大好きな一曲である。

 

 映画にもなり、映画館のスクリーンでも見たし、DVDも持っている。

 

 作詞はサトウ・ハチローさん。歌詞の中に「こころの罪を打ち明けて‥‥」という一節がある。

 前後にロザリオの鎖とかミサの声、十字架といったフレーズがあるから、ふだん何気なく歌ってきたものの、「召されて天国へ旅立った」永井隆博士の奥様はクリスチャンであったことが想像される。

 

 昔見たアメリカ映画で、どんなシーンだったか忘れたけど、主人公が瀕死の友人にささやいたセリフ「人はそれぞれ十字架を背負って生きているんだ‥‥」が今も記憶に残っている。

 

 

 また、人の業(ごう)という言葉も、日常の会話で使われてきた。

 

 これらの言葉はキリスト教や仏教の考え方に結びついていくようである。

 

 「こころの傷」という言葉の使い方もある。

 

 私も心の片隅に小さな古傷を秘めている。

 

 普段は意識しないけれど、「長崎の鐘」の「こころの罪を‥‥」を口ずさむと、そのこころの傷もチクリと痛むことがある。

 

 

 あれは新聞記者駆け出しのころ、特ダネをあせって人の心に傷をつけてしまったのである。

 

 当直のある冬の夜、所轄警察署をのぞいて平穏を確かめ、本社へ戻る途中ふと赤ちょうちんの前に通りかかった。

 

 当直室へ帰っても冷たい部屋が待っているだけ。つい誘われるようにふらふら足を踏み入れ、好きでもない熱かんを注文した。

 他に客の姿はなく、手持ち無沙汰のママさんがヤマ勘を働かせて「兄さん、いまごろ‥‥そこのI新聞の記者さん?」と話しかけ、しばらくすると「耳寄りな話聞かせてあげようか」ともらしてくれた。

 

 公務員の今でいう「パワハラ」のネタ。ただし被害者は、役所と取引ある弱い立場の一般人で、その顔を殴打したというものである。

 

 翌日から関係者を回って取材した。正式に告訴されていること、当事者、上司などから確認を取り「本人も反省しているので、何とか穏便に」と上司から頭を下げられたのも無視して事実だけ記事にした。もちろん関係者の名は匿名である。

 

 このパワハラ事件?は、起訴されなかった。

 

 

 日がたつにつれ、私の心は痛んだ。社会に少しでも警鐘鳴らすほど価値のある記事であっただろうか‥‥。当事者(加害者)の心と将来に傷をつけただけに終わったのではなかったろうか。

 

 

 この記事をきっかけに、その後私は「人さまの心に傷をつけないよう。できれば心温まる明るい話題を求め」一層慎重に記事を書くことに努めた。

ひんやり‼抱きまくら

 前々から「欲しいなぁ」と思っていた抱き枕。

 

 「はい、父さんプレゼント!」思いがけず娘が、それもニトリのNクールまくらを買ってきてくれた。

 

 「これは、これは。おおきにありがとう‥‥」

 

 何だか私の心の内を見透かされていたみたい。やっぱり親子、気脈が通じるというものかなぁ‥‥。

 

 

 就寝のころ合いを待ちかねて、ちょっぴりわくわくしながら布団へはいって、枕を抱く。

 

 

 ひんやり――こりゃ気持ちいいや。顔がほころぶ。

 

 

 私は若いころから素っ裸に寝間着やパジャマを引っかけ、大の字になって眠るのが好きであった。

 

 しかし、肺気腫、心臓弁膜症を発症してからは、長い時間大の字で寝る姿勢が保てなくなり、夜中にごろんごろんと、左向きになったり右向きになったり、なかなか深い眠りにはいることができない夜が多い。

 

 だから肩こりも益々ひどい。

 

 抱き枕すると、多少肩の痛いのが緩和されるみたいな気もしないでもない。

 

 それに、何だか気持ちがすっかり落ち着いて、母の懐へ抱えられたような幸せな心持ち‥‥。

 

 はて、さて‥‥。両手両足で枕を抱きかかえ、からだをエビのように折り曲げて寝る、この姿勢。

 

 そうだ、母の胎内にいる形じゃないか。

 

 それで海の底にいるみたいに気持ちが静まるのだろうか‥‥。

 

 何だかんだ考えているうちに、今夜も眠ってしまうようである。

 

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 ☆写真(上)は、頭も支える抱きまくら(やわらか)幅45㎝、長さ115  cm。㈱ニトリ。娘はこちらも一緒に買ってくれた。

 写真(下)は抱きまくらNクールHポーラベア。長さ68cm、径20㎝。㈱ニトリ

 

――お恥ずかしや・・・

   妻に探し物を頼まれ、倉庫のあちこちを探し回っていたら、肝心の頼まれ物は見つからず、代わりに私の懐かしいものが出てきた。

 

   大きな段ボール箱に詰め込んだ新聞のスクラップブックが数十冊と4冊の文芸雑誌。

   スクラップブックは、私が新聞社に在職中書いた連載企画記事がほとんど。文芸雑誌は高校時代に図書クラブが編集発行したものである。

 

    その文芸雑誌のうち3冊は週刊誌大でガリ版刷り、1冊はB5の活版印刷という体裁である。

 

 私が高1の時創刊されて、夏休みの宿題で書いた私の小説?も掲載されている。2年生の時第2号ができて、それにも私の小文が載っている。

 

 今読み返せば、何とも幼稚な文章の羅列である。

 

 第3号、第4号は高3の時代。この文芸雑誌の編集がしたくって私は図書クラブにはいって、部長として思うままにふるまった。

 

 第3号に発表した、男女の愛の遍歴?をテーマにしたつもりの私の短編だが、印刷所が気を利かせて、勝手に男女が抱擁する挿絵をでかでかと載せたので、さあ大変‥‥。

 

 納入された雑誌を開いて、私が青くなって震えたのはもちろんだが、学校内も騒然。朝一で校長室へ呼び出された。

 

 「こりゃ、何だね。挿絵は君が指示したのか――」

 「いいえ、全く身に覚えのないことで‥‥」いきさつを説明する。

 「小説の中身も問題だね。中でも″コオロギの交尾のような交わりを繰り返し‥‥”っていう表現、こりゃなんじゃ。そもそも、君はコオロギの交尾を見たことあるのかね」と校長から大目玉を食った。

 

 農村に生まれ育った私だって、コオロギの交尾何て見たことない。恋愛の経験はおろか、女性と一対一で話したことすらない”純情”少年である。

 

 過去に読んだ小説の表現をあれこれ思い出しながら、全く想像で書いたものであった。

 

 校内に出回ってしまったものは仕方がない――ということで、いつの間にかこの問題、何となく終息した。(私が真面目な?生徒会会長だったからかも)。

 

 

 私は今でも、このページを開くたびに「うひゃぁ、お恥ずかしや」と我ながら五体隅々まで真っ赤になって、読むのをためらってしまうのである。

 

 かといって、この雑誌は捨てられない。多感だった時代の「思い出の品」として、捨てるのが惜しいのである。

 

 そんなわけで、今までスクラップブックと一緒にしまってきたのである。

 

 

 私は国語が好きだということもないし、作文が上手でもなかった。

 中3の時、修学旅行で奈良・京都方面へ出かけた感想文を書くよう国語の先生からクラス全員に宿題が出された。

 

 「上手に書けました」と先生は私の作文をみんなの前で朗読して聞かせてくれた。

 

 

 その時から、にわかに私は作文好きになった。

 

 

 「好き」と「上手」とは別物。私は、どうやらそこのところ思い違いしてしまったようです。

 

 高校1年生で小説を試みたり。高3になると、もういっぱしの文学青年気取り、ううんと背伸びして、臆面もなくペンを走らせていたのであろう。

 

 あの時代の文章を見ると、本当に消え入りたいほど恥ずかしくなる。

 でも、あの頃はあのころで、深刻にテーマを追求し(――したつもり)、かっか燃えながら書いたのである。

 

 

 新聞記者になって毎日書くことが仕事になっても、満足に書き上げたと思える記事は一本もない。

 

 書いたその時は「やった、書けた」と思って出稿するのだけれど、後日読み返すと「もっとこう表現すりゃ良かったなあ・・」といつも悔やむのであった。

 

 

 ――自営業に転職すると、数字相手に電卓をたたく毎日。文章には縁遠くなってしまった。

 

 

 その後、神職の勤めをいただくと、再び文章を書く機会が多くなった。年5回発行する神社の社報づくりは、パソコンで記事を書き、編集して印刷所へ回した。

 

 記事は何度も推敲したつもりでも、さて出来上がった紙面を見ると、相変わらず(ここはこう書けばよかったのに)と後悔ばかり。満足したことは一度もなかった。

 

 

 いつまでたっても自分の文章に満足できない私。情けない。

 

 そう思いながら、やっぱり私はこれからも拙文を披露して行くのであろう。