ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

ありがたいことだなぁ‥・

  「三度三度、毎日、二人そろって、ご飯を美味しくいただくことが出来て、ほんとに

ありがたいことだなぁ、母さん。」

 

「ほんと。父さんも私も、自分の歯で噛めるから、何を食べても美味しいわ。」

 

「母さんは歯も丈夫だし、目はメガネなしで新聞読める。耳もわしよりよう聞こえる。

百まで生きられるぞ。――このところ、おつむの方が、ちょいお疲れになってきたよう

やけど‥・」

 

「アハハ!、何でもよう忘れる。そのうち、朝起きたら、そばにいる父さんに″あん

た、だれ?″って言うかもわからんよ。」

 

「ぼつぼつながら、お互い自分の足で歩けて、からだも特に痛いところもないし、ほん

とにありがたいなぁ。」

 

 ″ありがたい″という言葉が、素直に、真っ先に出てくる今日この頃である。

 

 

 リタイアして早や7年余、その年月分 老いの齢(よわい)を重ねた。

 

 ――欲がなくなった。古い言い方なら「灰汁(あく)抜け」するということであろ

う。出世欲や金銭欲なんてさらさらない。つましく暮らせば、何とか食べていけそう

だ。それで結構。

 前立腺がんを患って、女性を見る目も変わってしまったし‥・。

 

 俗気がなくなった――。それは、男に生気をみなぎらせていた源泉が、枯れて

しまったということでもあろう。

 

 

 還暦過ぎたら、息子に身代譲って、さっさと楽隠居――なんて言ったのは、昔の話。

 

 長生きの養父母を介護しながら、二人の子供を育て上げ、巣立ちを見守り、やれや

れ、と思ってふと気がつけば、自分らもいつの間にか老いの域。

 

 でも、差し当たって今日・明日、私どもの身の回りを看てくれるものはないのであ

る。もとより、それは覚悟の範囲内で、あわてることではない。

 

 そろり、生きて行けばよいのである。

 

 『残り人生をスケジュールに合わせて動くなんてとんでもない。私は毎日、出来心

で‥・』(2016年7月31日付、中日新聞コラム。女流画家篠田桃江さん103歳のお言

葉)そんな生き方を真似てみる。

 

 ともすれば「怠惰」に身を任せたくなりがちな私。「毎日出来心」にすっかり

なじんでしまったようである。

 

 本を読みたくなれば、何時間でも読みふける。その気が起これば、ためらわず散歩に

出る。ふと興味がわいたら、ちょっとだけ新しいことにも挑戦してみる――等々。

 

 そんな明け暮れに、″気がとがめなくなった″ 老身の 昨今である。