ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

け・い・ち・つ(啓蟄)

   3月6日は、啓蟄(けいちつ)――冬ごもりしていた虫たちが、土の中からはい出してくる。

 

 大きらいなヘビ様も動き出す。

 

 私のお仕えしていた愛称「旅の宮」(離宮さんとか大漁の宮とも)は、古くからヘビ山と呼ばれ、ある年には特に「まむし注意」の立て札を森のあちらこちらに立てて、山林内へ立ち入らないよう呼びかけたほどである。

 

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 ある朝、出勤して社務所へはいろうとしたら、外壁の板のすき間から太いヘビの首がにゅうっとのぞいて「ひえー」っと飛びのいた。こんな歓迎はごめんだ。

 

 朝の御勤めをするので拝殿の敷物にひざまずいたら,、目の前に小さなヘビが舌をペロリ。

 「助けてッー」。

 

 廊下の片隅に(ゴミのかたまりかな?)と立ち寄れば、細いちっちゃなヘビが一人前にとぐろを巻いている。

 

 かわいそうだ、と一瞬ためらったけど、ハエたたきを持ち出してピシャリひとたたき。

 

 殺生してしまった、と心が痛んだ。

 

 夏の昼下がり。ふと社務所の窓の外に目をやると、太くて長いシマヘビが、こちらの垣根から、広い境内を横切って向こう側の山の中へゆうゆうと渡って行く。

 

 夕方、御本殿の辺りを見回っておこうと、森の中へひと足踏み出すと、ザワザワと一斉に十数匹のヘビがうごめく。高枝切りばさみで、前方の草むらを払うようにたたきながらそろり進む。

 背筋が、ぞくっとする。

 

 日の陰った参道へ足を向けると、道のど真ん中を遮るかのように太く長いのが寝そべってござる。

 

 昼間の暑さがこたえ、砂利で体を冷やしているのだろうか、動こうとしない。

 

 そんなヘビ山なのだが、昔から今までヘビに噛まれた話を聞いたことがない――というのが氏子たちの自慢でもある。

 

 無数に生息する小動物や小鳥、虫たちの天国みたいな境内林・境外林も、私が宮司として奉仕した二十余年の間にすっかり様変わりし、近ごろはクワガタムシなど絶えてしまったのか全く姿なく、あのヘビ族もめっきり減って、あまり姿を見かけない。

 

 広大なお宮の森は、昔にも増して溢れるばかりに緑生い茂るものの、そこに息づく小動物や小鳥、虫たちの生態は、人の想像を超えて変わってしまったように思われ、心に引っかかるのである。

 

 

 さて、けいちつは人間にとっても「さあ、働くぞ」と意気込み始める日でもあろう。

 

 寒いだの、だるいだのと家の中に閉じこもり、あげくインフルエンザにかかって2月いっぱいうじうじしていた私。

 

 厚いジャンパーを脱ぎ棄てて、思い切って春の日差しの中へはい出さなくっちゃ‥‥。

 

 

 👇朗読しているのは私。「まんが日本昔ばなし」の語り口をイメージしながら、原稿を読んでみたのでしたが・・。

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インフルエンザにかかって、亡き母を思い出す

 2月1日の早朝から下痢が始まった。咳も連発する。

 

 風邪かな?と様子をうかがいながら過ごす。

 

 三日目、トイレに駆け込む間が開いてきたので、町内のかかりつけ内科へ車を走らせる。

 

 「普通の風邪みたいですね。整腸剤を5日分出しておきましょう。」やれやれ、インフルエンザでなくて良かった。

 

 その翌日から、妻がゴホンゴホンやり出した。

 

 「おれの風邪うつしたのだろうか?。」医者にかかるのは早い方が良い。

 急いで妻を車に乗せ、内科を訪れる。

 

 「お二人ともインフルエンザ陽性の反応が出ました。」綿棒で鼻の奥の粘膜を採取して試薬に反応させた結果を見せながら、「ご主人の方はダブルパンチですね。」二人ともタミフル5日分をもらって帰宅した。

 

 風邪が流行っているので、外出を控え、来客もなかったのに、どうやら妻が二三日前近くの食品スーパーでインフルをもらってきたもののようだ。

 

 ともかく1週間はなるべく家にこもって、身を慎むことにした。

 

 インフルエンザのA型だと内科の先生は説明されたように記憶していたが、どうもB型のようで、私も妻も度々トイレに駆け込み、二三日は咳も競演さながらであった。

 

「やっと代休がもらえたので‥‥」長女が心配顔でやってきた。毎朝夕電話をかけてきて、容態を聞いてくれてはいたが、やはり老いた両親が気がかりになったのであろう。

 

 せきに生姜のど飴、体を温めてと甘酒、温野菜の煮物、焼き立てのパンなどなど買い物袋一杯ぶら下げて「からだの具合、どう?」。

 

 さらに「からだ大事に!大好きなお母さんへ」と自筆のメッセージを添えたシャボンフラワーの鉢植え(写真)をテーブルに飾って、

「これ、カゼ見舞い。お母さんへと書いてあるけど、お父さんにも共通。じゃあね‥‥。」

 サッサと帰って行った。

 

 いつもなら何か珍しいおかずを手作りし、夕食を一緒にして、ひととき愛犬チワワと戯れ、ゆっくりしていくのに、今日はマスクも外さず、お茶一杯飲まずに、ハイさよなら‥‥さすが臨床栄養学の先生らしい。”インフルエンザ桑原クワバラ””うつっては大変だと、きちっとけじめをつけるところはつけて早々に引き揚げて行ったものであろう。

 

 「なんだかんだ言いながら、親を心配してくれているんだな。嬉しいね、母さん。」

 私どもほんわか、ほのぼのとした気分をかみしめ、妻も「いい子たちに恵まれたね」つぶやいたのであった。

 

 

 そんな娘との前夜のやり取りが心の奥に残っていたのだろうか、次の明け方、私は亡き母の夢を見た。

 

 私は小学1~2年生の頃、しょっちゅうおなかを壊して学校を休んだ。

 

 母は忙しい野良仕事から帰ると、冬場なら湯たんぽを沸かせて「おなかに抱えて温めな」とふとんの中へ押し込んでくれたり、温かいくず湯(その頃くず湯は手に入りにくく、大抵は片栗粉の代用であった)を作って飲ませてくれたりした。

 

 

 おふくろに親孝行せずじまいだったなあ‥‥いまさら嘆いても何にもならないが、おなかを壊して寝込むと母親に甘えられる‥‥普段は野良仕事が忙しく子供にかまっておれない母親に対し、無意識のうちに母の愛情に飢え、母の温かみを欲しておなかを壊したのかも知れない、何てこの歳になって思いながら、いつの間にかまたひと時まどろんだ。

 

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妹よ

 隣町に住む末の妹が、久しぶりに電話してきた。

 「お兄ちゃん、ちょっと教えて‥‥」

 

 妹の話の内容は、しゅうとめが他界した後引き継いだ自宅の神祭。神棚に、毎朝新しい水、米、塩をお供えして「家内安全」をお祈りしているという。

 感心させられた。

 

 神棚の扉は、ずうっと開けたままにしているが、夜は扉を閉めるのが正しいお祀りの仕方なのか。このごろ何だか気にかかり出したので「神主だったお兄ちゃんに聞くのが一番だと思って‥‥」尋ねたのだという。

 

 私は「神棚の扉の開け閉めについて、別に決まりはないと思う。氏神さんなど身近なお宮へ参拝して気づくように、大抵の神社はふだん本殿の扉を閉じている。

 

 神さまのお姿を、軽々しく見ようとするものではない‥‥神を畏(おそ)れ、うやまうという気持ちから、ふだんは扉を閉めているのだろうな。」と答え、

 

 自分の気が済むように、これでいいと思うままに、それも毎日無理なく続けられるやり方でお祀りしたらいいのじゃないの、とつけ加えた。

 

 神は、人がいるから存在するので、お参りして自分の気持ちが安らぎ、リフレッシュできるなら、別に形にとらわれなくて良かろうと、私は思っている。(神職は、祭祀を厳修しなければならないが・・)。

 

  さて、私は、六つ下に弟、さらに六つ離れて妹、その三つ下に末の妹という4人兄弟である。上の妹が小学2年生の時、下の妹が就学前に父親が他界したので、兄の私を父親のように頼って育った。電話してきた妹は、小学6年を卒業する春まで、毎晩私と一緒に風呂にはいっていた。

 上の妹の方は「お兄ちゃんは甘いものが好きだから‥」と折に触れ和菓子を買って訪ねて来てくれる。

 

 二人の妹は、既に子供たちも巣立って、それぞれ今は伴侶と穏やかに暮らしているというのに、いまだに「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕ってくれている。ありがたいことだ。

 

 私も、妹たちが大好きだ。愛おしく思い、そっと見守っているつもりだ。実家を継いでくれている弟夫婦とも、私どもしょっちゅう行き来して、円満である。

 

 兄弟は、いいものである。

 

 

 

 

 

 

ひとのうわさ話。

 「小人(しょうじん)閑居して不善をなす 」という成句があるが、私みたいな老人が暇を持て余していると、ふと、何でもない過ぎし日の出来事を思い出すものである。

 

 はるかムカシ(昔)、I新聞に転職して記者駆け出しのころの話である。

 

  仕事は、まず朝の「サツ回り」から。市政記者クラブの各社記者と一緒に所轄警察署→検察庁→裁判所等を回って、それぞれの部局の責任者と雑談をしながら記事を拾う。

 取材される側も、各社ばらばらに来られるより、数社まとめて相手する方が効率的なのであろう。

 

 取材する方も、される側も、ちょっと見たところ朝の慣習‥挨拶みたいなものである。しかし、抜け目のないベテラン記者は、雑談の中からヒントをつかんで、後刻、単独で刑事課長を訪ねて話しかけ、時には特ダネに結びつけることだってある。

 

 朝のちょいとした儀礼みたいなサツ回り‥‥なんて気を抜いていたら、とんでもない。うかうかしておれない。新人記者はあちこちで頭を打ち、べそをかき、鍛えられて行くのである。

 

 そんなある日。私は、めずらしく宵のうちに仕事を終え、私鉄電車に揺られて1時間余り。自宅の最寄り駅で降りると、自転車預かり所に立ち寄って自分の自転車を受け取り、15分ほどペタルを踏めば自宅に着く、というのがいつもの道のり。

 

 改札を出た所で「突然呼び止めて、ごめんなさい」と後ろから声をかけられた。振り返ると、30代と思われる実直そうな男性である。

 「あなた、記者さんですね」

 「‥はあ」

 「私もこの私鉄で通勤しているので、時々姿をお見掛けします」

 「はあ‥」

 たまたま今日は同じ電車に乗り合わせ、時刻も早いので、途中下車して私の後を追ってきたようである。

 「ちょっと話を聞いていただきたいのですが・・」と駅前の喫茶店へ誘われた。

 話を聞いてみると、この人は、どうやら記者たちが毎朝回っているある部局の職員で

 「記者さん方は、いつも課長と何を話していらっしゃるのですか」と繰り返し聞いてくるのである。

 「何の話って‥‥。とりとめのない世間話ばかりですよ」と答えると

 「私のことは話に出なかったでしょうか」と言われ、

 「はあ?‥。‥個人のうわさ話なんて出ませんよ」と答えるしかない。

 「私のこと、何か話しているのじゃないかと、いつも聞き耳を立てていたのです」と。

 私は腹の中でびっくり。そんな見方をしている人もいるんだ‥‥。この人が、あの部署にいたなんて、名も顔も知らないし、全く関心もない。あきれたものだが、

 「気にすることは何もありませんよ」と、ここはなだめ慰めて、帰ってもらった。

 

 後日、この人が勤務するという部署を取材で回ることがあっても、あえてこの人の顔を見ることはしなかった。

 

 日ごろ、この話と似たような、気まずい雰囲気を経験された方もいらっしゃるのでは、と思う。

 

 こんなシーンも。

 たまたま職場の同僚が二三人あるいは数人、立ち話している所へ出くわした途端、いままでの話が途切れ、思いなしか顔を見合わせているみたい‥‥「面白い話でもしていたの?」何て笑って話仲間に加わってみよう振りをするものの、腹の底では(俺の悪口言ってたんじゃなかろうか)と疑心暗鬼を生じるものである。

 

 我が家でも。

 近ごろも相変わらず、家内の知り合いが、入れ代わり立ち代わり訪ねてきては家内とひとしきり雑談をして帰って行く 。狭い我が家、聞くともなく話し声が漏れてくる。

 

 「あそこの化粧品屋、感じが悪いのよ。化粧水を買って店を出ようとしたら、背後で店の奥さんと店員の笑い声がした。きっと、安物買いの私をあざ笑っていたのに違いない。あの店には、もう行かない」と家内に話して、うっぷんを晴らしている様子であった。

 

 お店の人たちはほかの話題で笑い合っていたのかも知れないが、お客の方は自分が陰口を言われたと受け取って気を悪くするものである。

 

 私だって、どこかのお店で買い物をして店を出るとき、もし背後で複数の笑い声を聞いたら(俺を笑ったのか?)と気を悪くするであろう。 

 店側のうかつでは済まされない。お客の姿が見えなくなるまで店主や従業員は私語を慎む‥‥これは接客の基本であろう。

 

 気の合った者同士が談笑したり、他人のうわさ話をするのは、時にはちょっとした息抜きにもなるようで、つい仲間に割り込んで調子を合わせてしまい、後悔することがある。

 

 うわさをすれば何とやら‥‥というが、他人様のうわさ話をして後悔するより、その前に、うわさ話するのを慎んでおいた方が無難のようである。

 

 

 

イメージする……彼の女性(ひと)は

 母の妹が他界し、その葬儀に参列するため郷里へ帰った。

 

 久しぶりに親戚や幼なじみの顔と出会い、あいさつを交わした。とっさに名前を思い出せず「森の孝夫(仮名)やがな‥」と言われ「あっ、ごめん。見間違ったわ」と笑ってごまかしたものの、ばつが悪かった。

 孝夫ちゃんは子供時分は母親似だったのに、五十を超えた今はすっかり叔父さん似のおやじ顔になって‥。

 そんな場面が二度あって、せっかく気安く挨拶してもらったのに、きまり悪い思いをした。

 

 ちょっと古い話だが、気の合う高校同級生四、五人と一杯飲んだ席で、酔いの回ったk君が「お前の町のS美容院の娘さん、魅力あるね。俺の大好きな女優若村麻由美の若い時に似ている。すっかり惚れちゃった」と私につぶやいた。

 話を聞くと、彼の奥さんを車でS美容院へ送ってきた時にたまたたま店の娘を見かけてすっかりのぼせ上ったもののようである。「いい歳したおやじが、何というこっちゃ‥」と思ったが「結構、結構、いいじゃないか」とはやし立ててやった。

 後日、S美容院の娘さんの顔を見かけることがあったが(どこが若村麻由美に似ているんだろうか)と私は首をかしげたものであった。

 

 自分が好きな女性を女優のだれだれに似ているとか、美化したいもののようである。逆に好きな女優さんやテレビタレントの顔を自分の彼女に目元がそっくりだ、横顔も似ている‥と、いよいよ想像は限りない。

 

 やがていつか夢冷めて、イメージと現実(虚像と実像かな‥)の落差に、自分ながら落胆するもののようである。

 

 幾つになっても、男ってやつわ……。

人間のすることに・・・

 新聞の社会面を開いたら「裁判官 うっかり。実名で呼びかけ」の見出しが目に留まった。

 性犯罪の被害者が誰であるかわからないように、被告を匿名で審理したH地裁の公判で、裁判官自ら被告を名字に「さん」付けで呼んでしまったという。

 

 裁判官だって人間、チョンボ(失敗。ミス)することあるわなぁ~。きっと腹の底でべそをかいていたであろう裁判官の表情を想像して、何だか思わず親しみを感じた。

 

 あれは昭和40年代初めであったか、古い話だが・・・。

 私の勤める地方紙I新聞が、婦女暴行事件の判決公判記事で、加害者・被害者両方の実名を紙面に出してしまったことがある。

 

 それは社会面の片隅に、小さな見出しで「女性の敵に有罪判決」。ベタ記事であったが、社内は朝から大騒ぎ。被害者側から「この責任、どう取ってくれるんだ」怒りは当然。幹部らは頭を抱えて「えらいこっちゃ」と大あわて。編集局長らが被害者宅へあやまりに飛んで行った。

 

 (その結末がどうなったのか、私は聞いていない。)

 

 編集局内で原因究明が始まった。

 その頃、会社は労働争議が長引き、社員の士気は衰え、多くが浮足立っているように私は感じていた。

 

 記者が書いた原稿は、通常まず報道デスク(部長または次長)が入念に目を通してチェックし、リライトの後整理部デスクの手へ。整理部デスクから社会面とか地方面とかの担当に渡す。担当部員は見出しを付けて紙面に割り振り、原稿を印刷局へ下ろす。

 当時の印刷局は、まず文選工が原稿に沿って活字を一本一本拾い 、組み上げた活字版をゲラ(活字版を収める箱)に入れて試し刷りしたもの(ゲラ刷り)を校閲部へ上げる。

 校閲が赤筆を入れた初校は再び活版部へ。誤字を拾いなおし、校閲が二度目の赤筆。大刷りが出来ると、校閲・整理・報道各部のデスクが最終チェックし、輪転機の部署へ送られる。

 

 ところが問題の原稿は、幾つもの目をすり抜けて、輪転機に乗ってしまったのである。

 

 裁判所の取材は、市政記者クラブの担当であったが、キャップは当日労組の執行委員会に参加しており、見習い期間中の新人が他社の記者にくっついて裁判所を取材し、たまたま当日の判決を記事にした。裁判所では報道用として、被害者の住所・名前など伏せて、判決のあらましを発表してくれていたが、当の新人記者は、各社と裁判所広報との雑談の陰で、取り調べ調書をちゃっかりのぞき見し被害者名までメモして、”勇躍”記事にしたもののようだ。

 わずか十数行の原稿だが、新人さんは長い時間かけて書き上げ、編集局が一番忙しい夕方のどさくさに紛れて報道デスクの席へ提出したのである。

 

 I新聞始まって以来の”大誤報”いや大チョンボは、ここから始まったのである。

 

 その時刻、報道部・整理部両デスクは役員室に呼び出され、労組がストライキにはいった場合の善後策について意見を求められ、しばらく席を離れていた。

 

 紙面づくりを急ぐ整理部員はしびれを切らし、報道デスクをのぞいて、積まれてあった原稿の束を確認もせず引っつかみ、勝手に自分の判断で社会面に割り振って紙面を埋めたのである。信じられない行為である。

 

 べた記事とはいえ、爆弾を抱かえたみたいな原稿は組織のすき間をスルーしていったのであった。

 

   個人でも組織でも、人のすることに「完全無欠」はないと戒められている。そんなところから「人事を尽くして天命を待つ」と続く。

 (I新聞の出来事は論外で、人事を尽くした結果とは言えない。組織のゆるみは怖い。)

 

 人生、いろいろ経験するものである。

 

 

 

 

しち・ご・さん

 日曜の12日、19日とその前後の数日「七五三」の手伝いで氏神さまの社務所へ出かけた。

 

 小さなお宮のことで、常勤は神職宮司)一人。

 祈祷や行事が重なり、スケジュール一杯になると、来客につい不行き届きな応対になってしまう場合も出てこよう。

 そこで、退任して4年余もたつ私に応援のお呼びがかかる。

 

 さて、この頃の七五三参りの様子はどうだろうか?――と、ちょっと興味を持ちながら、白衣・紫の袴(はかま)に着替えて受付に立つ。

 

 その日午前10時の祈祷予約は3組。2組は5分前までには控室にはいられたが、あと1組は15分過ぎてもお見えになる気配がない。

 「時間通り来られたご家族を、これ以上お待たせしてはいけない」と宮司は2組を案内して拝殿へ向かった。

 

 間もなく太鼓の音が聞こえ、お祓い・祝詞奏上へと式は進むはずだ。

 その辺りになって「10時予約の〇〇です。」5歳と3歳の男の子を連れ立った親子が玄関に着かれた。

 「お待ちしていたのですが・・・今ご祈祷中なので、あと20分ほどお待ち願います。」と控室へ案内する。

 ものの5分もたたないうちに控室でドタバタ。兄弟がソファでジャンプしたり部屋の中を走り回っている。父親は煙草をふかし、母親はスマホをいじってそ知らぬふり。

 「もうちょっと待ってね。静かに我慢できた子には、神さまからごほうびがいただけるからね。」なだめて、頭を撫でてやる・・・。

 

 先の2組が祈祷終えて御殿を下がってきた。待ちくたびれていた親子はすぐ宮司に導かれて拝殿へ、ばたばた足音立てながらはいって行く。

 

「やれやれ」ホッとする間もなく、もう次の11時予約の親子が訪れるはずだ。

 

 お昼、12時半過ぎ、「今のうちに腹ごしらえしておこう。」と宮司がカップラーメンに湯を注ぐ。 

 ふと窓の外に目をやると、参道には次の午後1時祈祷予約済みの親子の姿が・・・。

 

 もう二昔も前になろうか、七五三当日の11月15日は、休日だろうが平日だろうが朝の8時を過ぎるころから、身なりを整えた親子連れが続々と鳥居をくぐり、祈祷開始時刻には控室も拝殿も満員になるほどであった。

 

 年々様変わりして、15日が平日だと拝殿はがらがら。親が勤めを休めないから、というのが大方の理由。師走にはいってから七五三参りをされる親子もある。

 祈祷の予約時刻を過ぎて到着しても気にしない。祈祷中にふざけて騒ぎ出しても、子供を叱らない親・・・

 

 「何でも自分らの思い通りに・・・」「他の人の気持ちなど全く気にしない」果ては、わがままが通らないと相手を誹謗する・・・

 

 私どもの年代から見れば「いやはや・・・」と嘆きたいところ。

 

 祭祀(祭事)に厳しい私の後任宮司も「七五三参りの本当の意味を忘れて、形だけ。マナーどころか年々”わがまま”な参拝者がふえていくようですね。」と私に漏らす。

 そして、きびすを返すと、祈祷を終えて今下がってきたばかりの拝殿へ「お待たせしてごめんね」愛想よく小さなお客さまたちを案内して行くのである。

 

 人の世の移り変わりを嘆いてみても、大方それは参拝者を受け入れる神社側のぼやき――泣き言であろう。努力不足だと反省したい。スタッフは宮司一人だけという小さなお宮なりに「どうしたらお客に満足して帰ってもらえるだろうか」考え工夫しなければならない。この仕事は、これから益々大変になる。

 

 前宮司である私の在任中の努力不足も否めない。

 

 参拝したり祈祷を受ける人たちからすれば、神社が受付時間を公表しているのだから、平日だろうと何時だろうと、自分たちの都合のよい時にお参りしたら良いのである。

 

 そんなことあれこれ、改めて考えさせられた”しち・ご・さん”であった。