ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

しゃべる自由・書く自由

 ことしも10月15日から新聞週間が始まります。ひところのような華々しいイベントやキャンペーンは見られなくなりましたが、新聞週間がめぐってくるたびに改めて言論の自由を考えます。
 神社の宮司になって、人前で話す機会がふえたのでしゃべる責任や、また、氏子を対象に広報・啓発が目的の社報を発行しているので書く責任をたびたび痛感しております。せんだっても社報にお賽銭の話を書き、その中で「賽銭箱に1円玉一つ投げ入れて、たくさんの願いごとをする人も多いようだ。(中略)1円玉一つの多寡は、ご自分の心に尋ねてご判断をとだけ申しておきます」といった表現を使ったら、すぐに反論が来ました。「1円玉供えて幾つ願いごとしようといらぬお世話だ。貧者の一灯というじゃないか」てな調子。
 しゃべるも自由、書くも自由の今の日本。でも、うかつに口を開いて誤解を招くやたちまち「大衆パワー」という大波が押し寄せます。時には、それって数の暴力じゃないの、といった光景にも出会います。
 古い話ですが、ある時遠洋漁船が遭難し捜索は難航、誰が判断しても難しい状況になった。地元の新聞が「絶望か」と見出しをつけたら「絶望とは何事か。死体があがるまで望みはある」と一縷(いちる)の望みをつなぐ地元漁民の逆鱗に触れ、その新聞(我が社)はボイコット、取材記者は袋だたきに遭うのを恐れて道を歩くこともできない有様だと悲鳴の電話。実はその取材の応援を命じられ、現地へ車を飛ばしていた当時まだ駆け出しの私は思わずびびってしまい、途中の漁業無線局へ逃避した苦い思い出があります。
 新聞社を辞めてから今まで、幸いそんな厳しい事件には遭遇しておりませんが、しゃべる自由・書く自由と背中合わせにしゃべる責任・書く責任があることを、今も日常思い知らされております。