ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

さば水煮缶で ”絶品炊き込みご飯” 作りました!

 老体にも、出来ました!。

 

 ブログ「居酒屋HANA」さんを覗くと目にするメニュー、いつも物欲しげに眺める

ばかり。

 

 私にも、何か一品でよいから、いつかこんな美味しそうな料理が出来たらなぁ‥・。

 

 腰も曲がるこの歳まで ”男子厨房に入らず” 何てうそぶいて、包丁を持つことすら

殆んどなかった。

 このところ、そうも言っておられない家庭事情に‥・。

 

 朝食は、妻が焼いてくれたパンとハム、目玉焼きを、私はコーヒーで、妻は牛乳でい

ただく。

 

 さぁーて、昼飯と晩のおかずは、何を食べるか――。ほぼ毎日、思案の種である。

 

 ふと、いつだったかブログ「居酒屋HANA」さんで目にした「さば水煮缶レシピ」

を思い出し、早速PCを開いて「しなやかに~ ポジティブに~」https://87diary.com/)

をクリック。

 

(炊き込みご飯なら、私でも真似できるかも)と、ひとり合点して、冷蔵庫をのぞい

た。

 

 米2合、さば水煮缶1缶(190g)、しょうが、大葉、すりごま。醤油、酒、みりん、

バター、レシピに従って材料をそろえる。

 

 野菜庫から、にんじん、ごぼう、しいたけ、こんにゃく、青ネギをつまみ出し

「母さん、これ刻んでよ」と力を借る。

 

 何でも二人で助け合って作る――なるべくそんな形を取るよう気を付けている。

 

 出来上がった‼。

 

 まず、仏壇のご先祖さまにお供えする。私ども長年の習慣である。

 

 2合のご飯は、二人で昼・夜2回で食べ切れそうもない。

 妻が親しくしている近所の一人暮らしY子さんにおすそ分けする。

 

 名古屋の知人からお中元にいただいた「守口漬」を小皿に。(夜はマイタケのお吸い

物を作った)

 

それからやっと、妻とテーブルに着く。

 

「こりゃ、美味い」私も妻も、顔がほころぶ。

 

 味加減ー甘からず辛からず。炊き上がりーふっくら。マイナス点は、しょうがが冷蔵

庫で日がたち過ぎていたので香りも抜け、役目を果たしてなかった。(あらかじめチュ

ーブのしょうがを追いたしていたけどだめ。)

 

”絶品”にはほど遠い炊き込みご飯ではあったが、「結構、うまかったなぁ、母さん」

 おっと、これは自画自賛

 

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[さば水煮缶を使った炊き込みご飯。守口漬けを添えて]

 

ありがたいことだなぁ‥・

  「三度三度、毎日、二人そろって、ご飯を美味しくいただくことが出来て、ほんとに

ありがたいことだなぁ、母さん。」

 

「ほんと。父さんも私も、自分の歯で噛めるから、何を食べても美味しいわ。」

 

「母さんは歯も丈夫だし、目はメガネなしで新聞読める。耳もわしよりよう聞こえる。

百まで生きられるぞ。――このところ、おつむの方が、ちょいお疲れになってきたよう

やけど‥・」

 

「アハハ!、何でもよう忘れる。そのうち、朝起きたら、そばにいる父さんに″あん

た、だれ?″って言うかもわからんよ。」

 

「ぼつぼつながら、お互い自分の足で歩けて、からだも特に痛いところもないし、ほん

とにありがたいなぁ。」

 

 ″ありがたい″という言葉が、素直に、真っ先に出てくる今日この頃である。

 

 

 リタイアして早や7年余、その年月分 老いの齢(よわい)を重ねた。

 

 ――欲がなくなった。古い言い方なら「灰汁(あく)抜け」するということであろ

う。出世欲や金銭欲なんてさらさらない。つましく暮らせば、何とか食べていけそう

だ。それで結構。

 前立腺がんを患って、女性を見る目も変わってしまったし‥・。

 

 俗気がなくなった――。それは、男に生気をみなぎらせていた源泉が、枯れて

しまったということでもあろう。

 

 

 還暦過ぎたら、息子に身代譲って、さっさと楽隠居――なんて言ったのは、昔の話。

 

 長生きの養父母を介護しながら、二人の子供を育て上げ、巣立ちを見守り、やれや

れ、と思ってふと気がつけば、自分らもいつの間にか老いの域。

 

 でも、差し当たって今日・明日、私どもの身の回りを看てくれるものはないのであ

る。もとより、それは覚悟の範囲内で、あわてることではない。

 

 そろり、生きて行けばよいのである。

 

 『残り人生をスケジュールに合わせて動くなんてとんでもない。私は毎日、出来心

で‥・』(2016年7月31日付、中日新聞コラム。女流画家篠田桃江さん103歳のお言

葉)そんな生き方を真似てみる。

 

 ともすれば「怠惰」に身を任せたくなりがちな私。「毎日出来心」にすっかり

なじんでしまったようである。

 

 本を読みたくなれば、何時間でも読みふける。その気が起これば、ためらわず散歩に

出る。ふと興味がわいたら、ちょっとだけ新しいことにも挑戦してみる――等々。

 

 そんな明け暮れに、″気がとがめなくなった″ 老身の 昨今である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お疲れさま、母さん‥・

「今日は、何日?」

     (私は「新聞見りゃ、わかるだろ」いらだつ気持ちをこらえて)

「6月6日土曜日だ」と答える。

 妻は、朝食の支度を続けながら

「ゴミ出しはなしか‥・」と念を押してくる。

「そうだよ」

 私は、食卓の前に腰を下ろし、朝刊を広げる。

 

 このところ、こんなやり取りから、私どもの一日は始まる。

 ひと足先に起きて行った妻は、まず湯を沸かし、仏壇にお茶を供える。

 それぞれ8枚切りの食パン1枚にロースハム、目玉焼き。妻は牛乳、私はコーンスー

プかコーヒーでいただく。

 しばらくたつと、妻は、私の読む新聞をのぞき見しながら「今日、何日?」けろり聞いてくる。

  (さっき言ったじゃん)あきれながら、

「6月6日土曜日だよ」と、言い聞かせるようにゆっくり答える。

 

 

 腹立ててもしようがない――

 

 去年の夏ごろから、妻の物忘れが甚だしくなり、私の心配ごととなった。

 長年の得意料理が作れなくなって「忘れてしもうたわ」。一口飲んだら思わずえずく

ほど濃いみそ汁を作っても気にしない、等々。

 

 長い年月、朝から晩まで動き続けていた体が、近ごろは、朝の洗い物や洗濯を終える

と、早速ソファにどさッ座り込んで、テレビのスイッチを入れる。5分もたたぬうちに

うたた寝を始める――。

 

 朝晩電話してくる娘に話したら「お母さんも、長い人生の疲れが今どおっと出てきた

のよ――そう思いやってね、お父さん」と優しい言葉が返ってきた。

「そうだなぁ。その辺、わしも心得ているつもり‥・」

 

 高齢夫婦の暮らしには、いずれこういう事態に出会うであろうとは薄々予期してはい

たはずだから、あわてることも、腹を立てることもなかろう――。

 

 

 

 妻がやってきた家事の一部でも、私がカバーするしかない。かといって、いたずらに

私が出しゃばっては、長年家事を取り仕切ってきた妻のプライド――自尊心・自負心を

傷つけかねない。

 

 「母さん、お昼は頂き物のスナップエンドウの卵とじでも食べようか。あんた、作っ

てくれる‥・。じゃあ、わしは昨日買っておいたカマスの塩焼きにでも挑戦してみよ

う。」

 妻の仕事を、私が手助けする構えで動くことにする。

 

 ――かかりつけ内科の先生に相談、紹介状を書いてもらって、車で20分ほど、同じ市

内のYクリニックの「物忘れ外来」を受診、頭のCTや脳血流シンチ検査など経て、

の働きを改善するという「イクセロンパッチ」を処方された。

 脳の認知機能の衰えに、少しでもブレーキがかかれば嬉しいのだが‥・。

 

 

 今日にでも腰が曲がっておかしくない風情のじいさんが、台所でうろうろすること

になって七、八カ月。

 手作り総菜の味加減も、そこそこいい按配に出来上がるようになってきた――(と、

自画自賛してみる私)。

 妻のお手伝い、と言いながら、いつの間にやら、実質私に主導権が移り出した。

 そのことに気づくと「何十年ベテランの母さんの味には、とても追いつけそうもない

けど‥・」なんて妻を持ち上げながら、今日も夕飯の総菜一品が出来上がるのである・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

養母(はは)のレシピ

 台所の戸棚で探し物をしていたら、奥の隅から、厚紙に書かれたレシピが出てきた

 菓子箱の厚紙をB5の大きさに切って、ボールペンで走り書きされている。亡き養母

の書いた字だとすぐ分かる。クリップで3枚止めてあった。

 「酢豚」と「マーボ―豆腐」のレシピで、(手帖)と出所まで書き添えてあった。

(手帖)とは「暮しの手帖」のことで、養母は創刊号から定期購読し、書架に並べて自

慢にしていた。

 

 養父の病気・手術のため、30代半ば、不本意ながら新聞社を退職した私は、養父

の営む日用雑貨の卸し業(と言っても実に小規模)を引き継ぎ、妻は養母の化粧品

小間物店を継ぐことになった。

 一時期であったが、近隣の会社など職場に出張して、化粧品を売らせてもらった。妻

とメーカーから派遣される美容部員を、私の運転するライトバンであちこちの職場に送

り迎えし、売り上げ増を図った。

 

 このように、私と妻が外売に出かけている間は養母が店番をしてくれた。

 私どもが美容部員と担当セールスを伴って帰宅するのを待ちかねて、養母は「今日は

店にこんなお客が来て、こう対応し、これだけ売った」と真っ先に話してくれた。

 

 養母は、お客の合間に、ある日は「酢豚」を、別の日は「マーボー豆腐」を作っ

て待っていてくれて、美容部員、担当セールスともども夕餉の食卓へ誘った。彼ら

また「毎度遠慮なくご相伴させていただきます」と、いつも養母のつくる夕食を期

待しているようであった。

 

 養母は、時には「冷蔵庫には鶏肉しかなくて‥・。どんなお味になったや

ら‥・」と言い訳しながらも、それは「酢豚じゃなくって″酢かしわ″ですね。実に

美味しいですよ。おばあちゃんは店も頑張ってくれるし、ありがたいことです」と

持ち上げるセールスの言葉を期待している笑顔であった。

 

 大正生まれの養母は、「気位の高い人」であった。

 ふだん、種がわりの弟妹らから「ねえさん、姉さん」と持ち上げられている女学

校、看護学校上がりの、T紡績で保健婦や舎監の経験を持つ“えらい人”であった。

 ――それだけに、商売1年生の養子に、負けてはいられないのだろう‥・、なんて私

も当時は邪推していたようだ(確執だったかも‥・)。

 

 その養母も逝って早や6年。今は、養母との快いと感じた部分だけを思い出すことに

している。

 ――養母の″気位を込めた″とさえ感じたあの夕食の「酢豚」は、とても美味しかっ

た。中華料理店の味と比べても遜色なかろう――そんなふうに、あれこれ。

 

 妻が、昨年夏ごろから急に気力・体力ともに疲れが目立つようになり、私との会話も

時々心もとなく感じて、はっと不安が胸をよぎる。

 

 長い年月、妻は寸暇を惜しむかのように働き通しであった。さすがに疲れたのであ

ろう。そう思えば、いささかでも私が妻をカバーするほかない。

 まず毎日の食事。総菜なんて、これまでほとんどまともに作ったことがない。

 しかし、そうも言っておれない事態になってきたようだ。厨房に入ることに決めた。

 養母の時代と違って、今はパソコンを開けば、どんな素材を使ったレシピでも簡単に

探せる。不慣れな自分でも手におえそうな簡単なレシピを選べばいいのである。

 

 「美味しいね」と和む妻の口元を想像しながら、フライパンと格闘する私の今日この

頃である。

 そして、在りし日、養母が調理の「酢豚」を囲んで談笑する私ども夫婦と化粧品販社

の社員を眺めて、満足そうな養母の柔らかな笑顔が、なぜかふと思い浮かぶのである。

 

 

 

 

 

たかちゃんに会えました

 小・中学校の同級生、たか子さんが拙宅を訪ねて来た。

 50年振りだろうか、健やかなお姿が、何より嬉しかった。

 

 ひょんなことから、途切れていた縁(えにし)の細いひもがつながっての再会である。

 

 お互い、じいさん・ばあさんになっているが、記憶に残る幼顔はそのまま、開口一番

「(確かに)たかちゃんだ!」――「〇〇君も昔のまんまや、肌もつやつやして‥・」

笑いあったものである。

 

 話始めれば、たちまち小学校時代が昨日のように鮮やかによみがえる――。

 応接間のテーブルにお茶を出し終えた妻も同席して、話ははずむ。

 

 たかちゃんが生まれ育ったのは、標高550mの山頂に臨済宗の有名寺があって「霊

山」と呼ばれる朝〇山のふもとに広がる数十戸の集落である。

 

 小学校の分校があって、この地区の1年生は分校で1年間学び、2年生になってから、

数キロ歩いて本校へ通ってきた。だから、初めてたかちゃんの顔を見たのは小学校2年

生の春である。

 

 ぽっちゃりした、やや丸顔、色白で、服装も町の子みたいにちょっとあか抜けして、

目立っていた――私の記憶に残るたかちゃんの初印象である。

 

 近づいて話しかけたかったけど、何だか近寄りがたく、やがてはただ普通の同級生同

士といった存在の小・中学校時代であった。

 

 むしろ、卒業して何年か過ぎてから、何かのきっかけで(あの子、どうしているのか

な?)なぜか気になり、やるせない思いに沈む宵もあった。それだけで過ぎた。

 

 ――生まれ育った土地で、六つ年上の男性に嫁ぎ、女の子を二人生んで立派に育て上

げ、今は伴侶と、嫁いで姓の変わった長女夫婦、孫たちと同居、にぎやかに暮らしてい

るという。

 

 同じ町内に住む同級生の近況はもとより、他所に住む同級生らの消息もあれこれ話し

てくれた。つれ合いに先立たれた近所の男の同級生には、時々夕食の総菜を分けてやっ

たり、気の合った女の同級生とは一緒に餅つきしたり、野菜作りをしたり、何かと助け

合って生きがいのある日々を楽しんでいるという。

(手作りの、色とりどりのあられ餅と奈良漬けを手土産として下げてこられた)

 

 助け合って生きる――昔の集落のよい部分が、今も息づいているように想像され

るのである。

 

 生まれた土地で育ち、嫁ぎ、子を産み、老いては子や孫らに囲まれて、やがては一生

を終え、この地の土に還る――。

 

 そんなたかちゃんの生涯。人生いろいろ‥・というけど、たかちゃんのような人生も

あるんだなぁ――湯飲みを口に持って行くたかちゃんの指先のささくれが、しば

し私の瞼の奥に残った。 

 

 

 

 

  

父さんには、似ないわ!

妻が見ているテレビの歌番組をのぞいたら、三浦祐太郎さんが歌っている。

「百恵ちゃんに似てるなぁ」思わず私の足が止まる。

「やっぱり親子やわ」妻の笑い声が返ってきた。

 

親、兄弟は、顔や性格、くせまでよく似るといわれている。DNAというものであろう。

 歳を重ねるほど、ますます似てくるようだ。

 

 

 長女が生れた時、立ち会っていた私の実母が「間違いなく、〇〇(私の生まれ在所

名)の顔やわ」つぶやいたものである。大きくなるにつれ「お母さん似ね」と言われる

こともあるが、大方は「お父さん、そっくりね」と評される。

 

 私も「気早なところなど、俺の若い時分そっくり。まるで鏡を見ているみたいで、

嫌になる‥・」と妻に漏らすことがある。

 

 せんだっても、大学の教壇で、白衣を着た娘が、臨床栄養学科の授業する様子を、

同僚先生が撮ってくださったビデオを見たが、にこにこ笑みを浮かべながら、ひと言

一言はっきりゆっくり、抑揚をつけながらしゃべる姿は、私が神社で氏子様にお話し

するビデオの姿そっくりだわい」――妻と笑い合ったものである。

 

 

 娘は、月に一度は顔を見せに帰るし、ほとんど毎朝晩、車から電話でその日の出来事など話してくれる。

 

 せんだっての休日、母と娘は台所で、楽しそうに、仲良く、夕食の総菜を作っている

気配。二人のやり取りを、居間で聞くともなく聞いていた私は(そのうちに雲行きが怪

しくなってくるだろう)と予感していた。

 

 「いらん」――「いらん!」娘の拒否する声が、次第に大きくなり、がちゃん、ガチ

ャンとヒステリックに扱う食器の触れ合う音も聞こえる。

(そら、始まった)私は、母親と娘のそんなやり取りを聞きたくもないから「母さん、

〇〇(娘の名)に柿やリンゴをやりたいというあんたの気持ちはよく分かるけど、

〇〇が欲しくないと言っているんだから、二度すすめてほしくないと言ったら、それ以

上すすめるのは止めておきな」と、いつも仲裁にはいる。

 

 そこは、やはり母と娘。10分もたたないうち、おだやかに仲良く、軽口をたたき合っている。

 

先日、朝の電話の時「近ごろの母さん、言うことすること、益々くどくなってきた。

おじいちゃん(妻の父親)、そっくりだわ」と嘆いた。

 

「やっぱり、そう感じたか。父さんは、じいちゃん(私からは養父)と毎日一緒に暮ら

してる思いや。親子だわ、まるで"娘二代目″みたい」私も同感である。

 

 「お前さんも、父親に似るなよ」と言ってみたら、オウム返しに「父さんには、似な

いわよ!」――きっぱりやられたものである。

 

 私としては、それは初めから予期していた返事で、(娘の心の中は、言葉ほどでもな

いわな)と、ほくそ笑んだ?次第である。

 

 

ふとんの中

 朝方の冷え込みが日ごと強まり、老体はいよいよ縮こまる。

 

 ふとんから、なかなか離れられない。

 

 尿意も我慢。目覚まし時計をちらり見て(あと30分ある、ある‥・)。今日一日を

あれこれ思い描き、うなずく。それで安心すると、からだを、くるり丸くして、顔から

布団にもぐり込む。

 

 こうなると、そこはちょっとまた別の世界。うつらうつら、これこそ夢ごこちのひと

時である。

 

 朝から出かける予定のある時など「寝過ごしてはいかん――」という覚醒と、「あと

10分だけ――」睡眠願望とのせめぎ合いとなる。

 

 

 ――高校1年の夏休みだったと記憶しているが、学校の図書室から、日本文学の本

を、目についたものから借り出して読んだ。

 

 田山花袋の作品に、何故かちょっと興味を持った。

 

 「蒲団」(ふとん)という中編小説(「新小説」1907年9月号に掲載された。)を

読んだ。

 

 妻と二人の子供を持つ中年作家が、弟子入りを志願してきた女学生の将来性を見込ん

で師弟関係を結び、自らの家の2階に住まわせる。女学生の恋人が、彼女を追って上京

してくる。二人の関係が、想像以上に進んでいるのに怒った作家は女学生を破門、親元

へ帰らせる。

 

 しかし、作家は女弟子のいなくなった空虚感に耐えられず、彼女の寝ていた「蒲団」

や汚れた夜着に顔を押しつけて、心の行くばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。

 

 性欲と悲哀と絶望とが、その34歳ぐらいの作家の胸を襲い、ふとんを敷いて、夜着

に顔をうずめて泣いた――。

 

 あらまし、そんな筋書きである。

 

 

 「蒲団」は、日本の自然主義文学を代表する作品の一つだと言われている。

 

 「へぇー、これが自然主義文学と言うものなのか――」高校1年生の私には、その程

度の読後感で、実際よく理解できなかった。

 

 しかし、幾らか刺激されたものか、自分でも小説を書いてみたくなった。

 

 思うままの書きなぐった小品を、学校図書クラブ発行の同人雑誌に投稿したら掲載さ

れてしまった。

 

 その小説の中で、主人公の男女が「コオロギの交尾のような情交を繰り返し‥・」と

いった表現が教師たちの目にとまり、職員室に呼び出された。

 

 独身の女史先生から「君は、コオロギの交尾を見たことがあるの?」と問い詰められ

た。

 

「いえ、知りません。あれは、誰かえらい作家が使っていた表現をそのまま借用したも

のです。ごめんなさい」と私は率直に謝った。

「だめねぇ‥・」女史は冷たく笑った。

 

(じゃぁ、先生はコオロギの交尾って、どんなか知っていなさるの?)って、今なら言

葉を返したかも知れないけど、あのころは、とてもそんな言葉の端さえ思いもつかぬ

純情?素朴?な少年であった――。

 

 

 「父さん、そろそろ起きてもええ時刻よ!」妻の声に、はっと目が覚める。

 

 「ワンちゃん、まだ起きちゃいや。行っちゃいや‥・って、ふとんがなかなか放して

くれないんだ」何てつぶやきながら、あと1分でも1秒でも余分に寝ていたい晩秋の

朝である。