ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

ふとんの中

 朝方の冷え込みが日ごと強まり、老体はいよいよ縮こまる。

 

 ふとんから、なかなか離れられない。

 

 尿意も我慢。目覚まし時計をちらり見て(あと30分ある、ある‥・)。今日一日を

あれこれ思い描き、うなずく。それで安心すると、からだを、くるり丸くして、顔から

布団にもぐり込む。

 

 こうなると、そこはちょっとまた別の世界。うつらうつら、これこそ夢ごこちのひと

時である。

 

 朝から出かける予定のある時など「寝過ごしてはいかん――」という覚醒と、「あと

10分だけ――」睡眠願望とのせめぎ合いとなる。

 

 

 ――高校1年の夏休みだったと記憶しているが、学校の図書室から、日本文学の本

を、目についたものから借り出して読んだ。

 

 田山花袋の作品に、何故かちょっと興味を持った。

 

 「蒲団」(ふとん)という中編小説(「新小説」1907年9月号に掲載された。)を

読んだ。

 

 妻と二人の子供を持つ中年作家が、弟子入りを志願してきた女学生の将来性を見込ん

で師弟関係を結び、自らの家の2階に住まわせる。女学生の恋人が、彼女を追って上京

してくる。二人の関係が、想像以上に進んでいるのに怒った作家は女学生を破門、親元

へ帰らせる。

 

 しかし、作家は女弟子のいなくなった空虚感に耐えられず、彼女の寝ていた「蒲団」

や汚れた夜着に顔を押しつけて、心の行くばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。

 

 性欲と悲哀と絶望とが、その34歳ぐらいの作家の胸を襲い、ふとんを敷いて、夜着

に顔をうずめて泣いた――。

 

 あらまし、そんな筋書きである。

 

 

 「蒲団」は、日本の自然主義文学を代表する作品の一つだと言われている。

 

 「へぇー、これが自然主義文学と言うものなのか――」高校1年生の私には、その程

度の読後感で、実際よく理解できなかった。

 

 しかし、幾らか刺激されたものか、自分でも小説を書いてみたくなった。

 

 思うままの書きなぐった小品を、学校図書クラブ発行の同人雑誌に投稿したら掲載さ

れてしまった。

 

 その小説の中で、主人公の男女が「コオロギの交尾のような情交を繰り返し‥・」と

いった表現が教師たちの目にとまり、職員室に呼び出された。

 

 独身の女史先生から「君は、コオロギの交尾を見たことがあるの?」と問い詰められ

た。

 

「いえ、知りません。あれは、誰かえらい作家が使っていた表現をそのまま借用したも

のです。ごめんなさい」と私は率直に謝った。

「だめねぇ‥・」女史は冷たく笑った。

 

(じゃぁ、先生はコオロギの交尾って、どんなか知っていなさるの?)って、今なら言

葉を返したかも知れないけど、あのころは、とてもそんな言葉の端さえ思いもつかぬ

純情?素朴?な少年であった――。

 

 

 「父さん、そろそろ起きてもええ時刻よ!」妻の声に、はっと目が覚める。

 

 「ワンちゃん、まだ起きちゃいや。行っちゃいや‥・って、ふとんがなかなか放して

くれないんだ」何てつぶやきながら、あと1分でも1秒でも余分に寝ていたい晩秋の

朝である。 

 

 

 

あなた、どなたでしたっけ?

 病院に入院すると、自分の名前のはいったリストバンドをはめられる。

 患者を取り違えたり、医療ミスを防ぐための手立ての一つであろう。

 院内のいろんな場面で、名前を確認される。

 

 

 ――50歳を越えたころ、痔がだんだん悪化し、脱肛を手術することになり入院した。

 オペに先立って、二十歳前後の看護師さんが肛門の周りなど陰部の毛を剃りに病室へ

来た。

 初めてのことで、私はとても恥ずかしく、思わず身を固くしてしばし耐え忍んだ。

 この看護師さんの顔と名前は当分忘れないぞ、と思った。

 

 数年後、また脱肛がひどくなり、同じ病院へ入院した。

 今回の毛ぞりはおばさん看護師であったが、手術のあと、この前の看護師さんが当番

で回ってきてくれた。

「あなたのお顔、憶えてますよ」と話しかけたら「ごめんなさいね。患者さんの顔ぶれ

は入れ代わり立ち代わりですから、ほとんど憶えてません。夜中にわめいたり、暴力を

振るったりして看護師を困らせた患者さんのお顔は、当分は憶えてますが‥・」という

言葉が返ってきた。

 

 いかにもそうであろうな。言われてみれば、私も毎日神社で初宮詣や七五三、家の新

築工事の安全を祈る地鎮祭などお祝いごとのご祈祷を何百件も奉仕しているけど、願主

様の名前やお顔ほとんど覚えてないものね。

 スーパーなんかで「あの時はありがとう」ってお礼言われても(誰だったかな?)

思い出せないもの――。

 

 

 二十歳代半ば、新聞社へ転職して間もなく、先輩にバーへ誘われた。I新聞本社から

数百メートルのアーケード商店街の裏通りに飲み屋が軒を連ねていた。

 私はあまり飲めないので、一杯の水割りをなめながら、不慣れなバーの薄暗い

雰囲気を珍しそうに何となくなじんでいた。

 半年ほどたった春の宵、ふといつかのバーのドアを押す気になった。

 カウンターに腰を下ろすと、ママさんが「おや、お珍しい。I新聞の〇〇さんでした

ね」私はびっくりした。でも、嬉しかった。あの時先輩が私の名前をママに教えたよう

だったが、覚えていてくれたんだ‥・。

 

 私はこの時、人の名前は忘れず、相手を〇〇さんと呼びかけることの大切さを知っ

た。その後は、取材先で〇〇課長とか〇〇さんとか名前で呼びかけることを習慣づけ

た。

 

 

 30代の半ば、養父が病に倒れ、手術することになった。養父に何かあったら家業を

引き継ぐと約束した経緯がるので、私は不本意ではあったが、新聞社を退職し、妻と

小さな化粧品店を引き継いだ。

 

 私はまず顧客の顔と住まいを覚え、来店されたお客は出来るだけ「〇〇さま」と声を

掛けるよう努めた。

 

 

 ――廃業して早や丸6年たった今でも、スーパーなどで当時の顧客に出合うと「〇〇

さん、お変わりなく何よりです‥・」と挨拶する。

 妻は「父さん、よう憶えているわ」と感心するが、私は「そりゃ忘れないよ。DMや

お誕生祝いを何十回も手書きしたからな‥・」と答える。

 

「私は、お客さんの名前も顔も大方忘れてしもうたわ」と妻。

 

「近ごろの母さんは、何でもみんな忘れるようになってしまったなあ」と苦笑す

るばかり。

 

 朝起きて、そばにいる私に突然「あんた、誰?ってなことにだけはならないでよ」

――しばらくは大笑いするしかない老夫婦でした。

 

 

 

弟よ、妹よ‥・

 8月の初め、娘が、上司らに従って出張、仕事中転んで左足くるぶしを骨折、帰宅し

て最寄りの病院で診察してもらったらすぐ入院、手術することになった。

 

 娘は実家から車で40分ほど離れたM市のマンションに一人住まい。入院手術となると

担当医から親に説明やら保証人やら手順がある。

 娘からの電話で、私は車を運転して病院へ駆けつけた。

 

 主治医は骨折部分の写真を見せながら、かねの板を当て、ボルトで止める(通常の)

1時間半ほどの手術で、心配する程度ではない、とのこと。

 「よろしく、お願いします」ということで、明日午後4時ごろから手術と決まった。

 

 入院は1週間余り、後は自宅療養の予定であったが、わがまま娘は仕事が気になると

主治医の許可を得て4日で退院「二三日お母さんに甘えたい」と実家へ帰ってきた。

 

 「これは楽ちん」と妻の介護ベットを占領、私と妻は狭い布団で休むことになった。

 8畳の寝室に親子3人枕を並べたのは何十年ぶりだろうか――。ひととき、親子はしり

とりゲームで童心に返り、大笑いしながら眠りについた。忘れ得ぬ思い出となろう。

 

 熱いさ中、何度も病院やマンションを行き来し、その間ちょっとしたアクシデントま

であって、気疲れ、体の疲れは老体に堪えたのか、二十日過ぎ体調が怪しくなってき

た。

 胃部あたりが苦しくなり、しばらく頑張ってみたが、耐えられそうもないと判断、妻

に救急車を呼んでもらい赤十字病院へ運ばれた。

 妻は、娘に電話、次いで私の弟にも電話しSOS。同じ市内に住む弟は心配して毎日

病室を訪ねてくれ、また妹にも連絡、妹は妻の食べごとの心配までしてくれた。

 

 こんな時、兄弟はありがたいものである。

 若気の至り、おのれのわがままを押し通し、親兄弟を顧みず、ふる里を捨てた不肖の

兄貴に、何も言わず力を貸してくれる弟に妹。

 あれこれ気を使いながら、小まめに動きまわる妹の姿に亡き母の面影を見た。

 血は正直なものだなあ――。

 今朝は、一番下の妹からも見舞いの電話があった。

 

 平成の市町村合併で、同じ市内に兄弟4人住んでいることになる。

 

 老夫婦二人暮らしとなった今、指呼の距離に兄弟が住んでいるのは、何ともありがた

い、心強いものである。

すれ違った人…

 夕方、日が落ちてからチワワと散歩に出かけた。

 自宅の裏を走る都市計画道路の歩道を、12歳の愛犬の歩みに合わせてゆっくり、いつ

もの道筋を行く。

 

 西空のあかね雲をぼんやり眺めながら、ふと考えごとをした時、誰かすれ違ったよう

な気配で我に返り、つい振り向くと、その人もチラッと振り返り、目があった途端サッ

サと行き過ぎてしまった。二十歳過ぎと思われる見知らぬ女性。

 それだけの話である。

 

 夕方にそんな瞬間があったせいか、夜ふとんに寝転がっていると、何となく遠い昔の

記憶が蘇ってきた。

 

 

 あれは――東京世田谷の学生寮から玉電に乗って渋谷へ。そこから徒歩でK大学へ

通っていた頃のことである。

 ある夕方、渋谷駅から道玄坂辺りをそぞろ歩いていたら、若い女性とすれ違った。

 それは一瞬であったが、私の眼の底に焼きついた。顔色はやや薄黒い(※)印象なが

ら、パッチリ開いた目が、陽に輝く朝露がように、きらっと爽やかだった。

 

 ぽっと出の私には、なぜかこの時、これこそ東京の女性だと、颯爽と雑踏を縫って行

く後姿を、新鮮なものを見る目で、しばし追っていた――。

 

 人さまのちょっとしたしぐさやふとした顔の表情などは、ずっと永く印象に残るもの

のようである。

 

 初めて就職した図書館で、「大学出ているのに、こんな文字読めないの」と皮肉られ

た初老のおばちゃん事務員の目つき、新聞社に転職し、編集局の雰囲気にまだ馴れない

頃、帰りがけ突然「今から夜勤代わってくれや」何となくいじめられた先輩の口元のゆ

がみ‥・等々、何かのきっかけで、五十数年前の出来事でも、ふと思い出せばいやぁな

気分になる。

 

 

 小さい時分のことも覚えている。小学校2年、担任のメガネをかけたおばさん先生

は、いつもスカートの腰のあたりに白いハンカチを下げていて、屋外授業で汗ばむと、

ハンカチで額の汗をそっと押さえる。白く細い指先だった。

 

 ふだん怖い顔の教頭先生が、休憩時間に廊下ですれ違いざま突然ひょっとこの顔をし

て見せてくれた。私にだけ、先生の優しい、おもしろい面を見せてくれた気がして嬉し

かった――。

 

 思い出せば、きりがなさそうだ。

 

 どれを思い浮かべても、懐かしい。

 でも、その時代に帰りたいとまでは望まない。

 

 幼いころ・若き日へのノスタルジア――それでいいのだ、と思う。

 

 さて、ひょいと気がついたのだが、「ところで私は、恵比寿神(お金の神様)といつ

どこですれ違ってしまったのかな?。それとも恵比寿神とは出会わなかったのか

も‥・」預金残高を思い浮かべいるうちに、眠ってしまったようである。

 

     (※)のち1974年映画デビューした女優佳那晃子さんの顔色に似た印象。

 

 

 

 

しみるねぇ~懐メロ

 歌は、聞くも、歌うも(若いころ)好きである。

 

 歌謡曲、取り分け懐メロ。うれしいねー大好きです。

     (昔、先輩の(左系)記者から「低劣な(趣味)‥・」と冷笑されたが――気にしない、気にし 

                         ない。)

 

 ふだん家でちょっと片づけ何かしていて、ふと気がつくと懐メロを口ずさんでいる。

口笛も吹く。

 それも超懐メロ。戦前・戦後の「はやりうた」だ。古いものは「緑の地平線」や「高

原の旅愁」etc 。戦後なら、美空ひばりちゃんの「悲しき口笛」「私は街の子」――

この曲など口笛でも得意である。

 

 

 歌好きは、母や叔母の影響であろう。

 

 私が4歳前後の頃だったように思う。農閑期や、雨に閉ざされ野良仕事に出かけられ

ない日なんかに、母と叔母は南側の明るい部屋にお針箱を持ち出して、家族の繕い物

や、時には新しく木綿の野良着を縫い上げたり、二人せっせと手を働かしていた。

 

 そんな折、はやり歌を口ずさみ、時々は好きな歌手や映画女優の話題も交えて、楽し

んでいるようであった。

「愛染草紙」「純情二重奏」「船頭小唄」「並木の雨」なんて、悲しい歌ばかり。

 

 そのかたわらで、おもちゃ遊びしながら、歌を耳にしていた私は「もう、そんな(寂

しい)歌はやめてくれ」と、手で母の口をふさいだもの――私が大人になってから、叔

母がその頃の話を聞かせてくれたのを覚えている。

 

 そんな環境で育ってきた私は、小学校1年の時分から学芸会で歌った。5年生の担任は

歌好き先生で、時々授業を中断してはギターをつま弾きながら演歌を聞かせてくれた

り、生徒らに歌わせたり、ますます歌好きになっていった。

 

 高校3年の秋には、NHK主催の「のど自慢大会」に出て鐘二つ。就職してからは、

民放ラジオの「職域対抗歌合戦」に〇〇法人チーム代表3人の一人に選ばれ、準優勝し

たこともあった。

 

 歌った曲は「NHKラジオ歌謡」ばかり。実のところは、それ以外の演歌は、普段ま

ともに歌ったことがなかった。

 

 小さい頃、ラジオで耳にしたことのある「NHKラジオ歌謡」や抒情歌がしみ込ん

でいたからであろう。

     自営業をしていた40歳ごろ、近所の商店主らからカラオケ同好会に誘われ、

    演歌も覚え、スナックで歌ったりもしたけど、お宮の宮司に就任してからは

    次第に歌と遠ざかり、歳とともに声も伸びを失い、今は歌う機会もほとんど

    なくなった。

        

 

 さて、NHKラジオ歌謡や抒情歌、歌謡曲(歌詞)を「意識」し始めたのは、ずうっ

と後年のことである。

 

 「心に燃えていたけれど、口には言えぬ頃だった‥・」(「りんどうの花咲けば」)

 「さよならと言ったら、黙ってうつ向いていたおさげ髪‥・」(「白い花の咲く

頃」)といったフレーズをラジオの懐メロ番組で聞いたとき、K子と校舎の裏から里山

につながる小道をそぞろ歩いた高校3年の卒業間近な日々を思い出さずにおれなかっ

た。

 

 高校2年で知り合い、忘れられない人になったK子とを結ぶ糸は切れそうになった

り、またつながったり、行く先が見えぬまま歳月は過ぎ行くばかり。

 胸の奥を時折りよぎるやり切れない悲しみ‥・二十歳過ぎの頃であった――。

 

 ある夜は、テレビ東京「懐かしのメロディ」で奈良光枝さんの歌う「白いランプの灯

る道」を視聴し、「歩きなれた、通いなれた敷石道よ。今宵別れの霧が降る‥・」と続

く歌詞とスローテンポなメロディーが、じぃーと心に染み入った。

 

 ――小雨けぶる秋の夕暮れ、図書館勤めを終え、赤レンガを敷き詰めた長い歩道を、

市電の停留所へ向かいながら、K子の面影を追うかのように歩いた情景がよみがえるの

であった。

 

  年齢を重ね、神社勤めをリタイアする前後から、ふと昔を懐かしんでは心休まるのを

覚えるようになった。青春時代を思い出し、ひそかに胸がときめくこともある。

 

 懐メロを聞くと、たちまち昔の光景がよみがえり、懐かしい――そう口になさるお人

も多いように思う。私も同じです。

 

 つい暇を持て余す今日この頃、パソコンの「YouTube 」で、いつでも、たくさんの

懐メロを見聞きできるのが、嬉しい。

 

 今日も朝からしとしと雨を降らせる空を、眺めるともなく仰ぎ、抒情歌をそっと口ず

さみながら、歌詞の情景を思い浮かべては郷愁のようなものに感じ入っている私であ

る。

 

 

 

 

 

 

 

妻の悲鳴

 「父さん、買い物につき合ってくれる・‥」しゃべりながら台所から廊下を横切って

居間へはいろうとした妻は、2センチほどの段差につまづきばたっと倒れ込んだ――折

よくそこに立っていた私が胸で受け止める格好になって無事に済んだ。妻は朝刊の折り

込み広告を見ながら、居間へ来ようと気配りがおろそかになったようだ。

 

 「あれぇ、母さん小さくなったなあ‥・」思わず、妻の背に回した手に力がはいっ

た。

 「苦労かけたからなあ‥・」何センチ背丈が縮んでしまったのだろうか――。背中を

軽くとんとんと叩くようにいたわり、ぎゅっと抱きしめて、離れた。

 

 

 ――あれは‥・結婚して半年後、妻は懐妊した。

 でも、いろんな事情・悪条件が重なってか、2カ月たたずに流産した。

 妻を慰め、体の回復を見守るとともに、私自身も身を慎んだ。

 1年ほど過ぎて、妻は再び妊娠した。本人はもとより、私も同居の養父母も気を付け

ていたが、″流産くせ″でもついてしまったものか、また体調があやしくなってきたので

ある。

 

 ある夜、私が新聞社から帰って、遅い夕食を食べていると、妻が「出血してき

た‥・」と青い顔。

 そりゃ、大変。「病院へ急いで‥・」と養母。

 私は直ぐ、かかりつけの産婦人科に電話で容態を伝え、タクシーを呼ぶ。

 15分弱で到着。妻を抱え込むようにして玄関に駆け込む。

 院長先生と看護婦(師)さんが待っていて、直ぐ手術室へ。

 

 私は、がらんとした待合室に1人待機した。とっくに外来診療の終わった院内は静ま

り返っている。

 

 間もなく、手術室からうめき声がもれてきた。次第に悲鳴に代わる。

 妻の声だ、と気づいた私は、もう、とてもその場に居たたまらなくなって玄関から外

へ50mばかり逃れ出た。

 

 間を見計らって待合室へ帰ってみると、すでにひっそり元の静けさに戻っていた。

 院長先生が私の前に来られて「無事終わりました。かなり出血していたので麻酔が使

えず、やむなく苦痛に耐えてもらうことになりました。お大事に」と丁寧に説明され、

奥へはいって行かれた。

 妻の出血がひどく、やむを得ず麻酔を使えぬまま「そうは(掻爬)」された模様であ

る。

 

 ほっとしたものの、私自身あたかも心臓をカミソリでシュッと切られるみたいな痛み

は、しばらくは治まりそうもなかった。

 

 私は、妻に「よーく頑張ってくれた。十分養生しような」と、ひたすら労わるばかり

であった。

 

 その後、妻は男女二人の子供を私どもに授けてくれた。

 振り返れば、長い道のりをともに歩いてきたものである。

 妻は30代半ばで勤めを辞め、養父母の営んでいた小売店を継ぎ、子供を育て上げなが

ら養父母の面倒を見、無事に最期を見守ることができた。

 三度も脊髄圧迫骨折をしている妻は、養母の介護の無理がたたり、あっという間に背

中が曲がってしまったのである。

 

 6年前、私が神社を退職するのに合わせるかのように養母が他界、小売店も整理し廃

業。やっと老夫婦の余生の明け暮れが始まったのである。

 

 ――身丈の縮んでしまった妻をそっと抱きながら、「母さんありがとうな。長生きし

てくれよ、な」と心に祈るばかりである。

「父の日」と中国産うなぎ蒲焼

 「父の日」の16日朝。スーパー〇〇店の折り込みを眺める妻の後ろから「あんたがこ

の間から食べたい食べたいって言ってるうなぎのかば焼きが出ているじゃない」と声を

掛けた。

 「父さん、お昼どっかへうなぎ食べに連れてってくれる。それとも〇〇店で間に合わ

せる?」

 「出かけるの、おっくうだしなぁ・‥」と尻の重い私。

 「‥なら、〇〇店へ行って、父さんの好きなもの買ったら?。父の日なんだから・‥」

 「特に食べたいもの思いつかんし、父の日言うてねぎらってもらうほど値打ちのある

オヤジでもないしさ。母さんのお好きなように――」何だかんだしゃべりながら、結局

妻と500mほど離れたスーパーへ車を走らせた。

 

 チラシに大きく出ていた「あなご御膳」は既に完売の札。父の日特製盛合せ寿司や弁

当・‥食指動かず。

 

 あれこれのぞいて、うなぎ蒲焼の前で足を止める。国産一尾2,500余円、国産の解

凍・養殖1,900余円なり。

 スーパーのうなぎは久しく買ったことがない。まずいという先入観がある。

 だから「大してうまくない蒲焼に2,500円はもったいないしなぁ」

 ちょっと迷ってから「試しにいっぺん食べてみるか」1尾1,300余円の中国産を買って

帰ることにした。

 

 炊き立てご飯をどんぶりによそってたれをかけ食べた。

 

 「やっぱりまずいや。焼き具合もだめ、たれの味もまずいわ――」

 「ほんとだね、父さん。ただ、うなぎ食べているっていうだけだわ」と妻も同調。

 「スーパーの中国産うなぎ蒲焼を買うのは初めての終わり、これっきりにしような」

 

 中国の危ない工場廃液の中で養殖されているうなぎもある――いつだったか、そんな

週刊誌の写真をふと思い出し、思わず「げぇっ」となった。

 

 私どもは自宅からほど近いうなぎ屋「〇〇川」さんをなれ親しんできた。

 出前もしてくれたし、家族でお店へ出かけたり、来客を案内することもあった。

 

 ところが、昨年夏ご主人が急に亡くなり廃業してしまった。

 

 町内にうなぎ屋は五、六軒あって、うち3軒は行ったことがあるけど、いずれも味に

なじめなかったり、店の雰囲気が暗かったり、やっぱり「〇〇川」さんを長年ひいきに

させてもらっていたのである。

 

 町外へ30分ばかり車を走らせれば繁盛店があるけど、わざわざそこまで‥‥という気

は起らない。

 

 近ごろは、娘が月1回チワワをシャンプーに連れて行ってくれた時、隣市の人気店か

ら蒲焼を買ってきてもらい、「旨いね。焼き具合もたれの味も、この店に限る・‥」口

いっぱい、気持いっぱい、しばし満足にひたる親子3人である。

 

 ――早いとこ、近くに、旨いうなぎ屋さんを見つけなくっちゃ――。