ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

しみるねぇ~懐メロ

 歌は、聞くも、歌うも(若いころ)好きである。

 

 歌謡曲、取り分け懐メロ。うれしいねー大好きです。

     (昔、先輩の(左系)記者から「低劣な(趣味)‥・」と冷笑されたが――気にしない、気にし 

                         ない。)

 

 ふだん家でちょっと片づけ何かしていて、ふと気がつくと懐メロを口ずさんでいる。

口笛も吹く。

 それも超懐メロ。戦前・戦後の「はやりうた」だ。古いものは「緑の地平線」や「高

原の旅愁」etc 。戦後なら、美空ひばりちゃんの「悲しき口笛」「私は街の子」――

この曲など口笛でも得意である。

 

 

 歌好きは、母や叔母の影響であろう。

 

 私が4歳前後の頃だったように思う。農閑期や、雨に閉ざされ野良仕事に出かけられ

ない日なんかに、母と叔母は南側の明るい部屋にお針箱を持ち出して、家族の繕い物

や、時には新しく木綿の野良着を縫い上げたり、二人せっせと手を働かしていた。

 

 そんな折、はやり歌を口ずさみ、時々は好きな歌手や映画女優の話題も交えて、楽し

んでいるようであった。

「愛染草紙」「純情二重奏」「船頭小唄」「並木の雨」なんて、悲しい歌ばかり。

 

 そのかたわらで、おもちゃ遊びしながら、歌を耳にしていた私は「もう、そんな(寂

しい)歌はやめてくれ」と、手で母の口をふさいだもの――私が大人になってから、叔

母がその頃の話を聞かせてくれたのを覚えている。

 

 そんな環境で育ってきた私は、小学校1年の時分から学芸会で歌った。5年生の担任は

歌好き先生で、時々授業を中断してはギターをつま弾きながら演歌を聞かせてくれた

り、生徒らに歌わせたり、ますます歌好きになっていった。

 

 高校3年の秋には、NHK主催の「のど自慢大会」に出て鐘二つ。就職してからは、

民放ラジオの「職域対抗歌合戦」に〇〇法人チーム代表3人の一人に選ばれ、準優勝し

たこともあった。

 

 歌った曲は「NHKラジオ歌謡」ばかり。実のところは、それ以外の演歌は、普段ま

ともに歌ったことがなかった。

 

 小さい頃、ラジオで耳にしたことのある「NHKラジオ歌謡」や抒情歌がしみ込ん

でいたからであろう。

     自営業をしていた40歳ごろ、近所の商店主らからカラオケ同好会に誘われ、

    演歌も覚え、スナックで歌ったりもしたけど、お宮の宮司に就任してからは

    次第に歌と遠ざかり、歳とともに声も伸びを失い、今は歌う機会もほとんど

    なくなった。

        

 

 さて、NHKラジオ歌謡や抒情歌、歌謡曲(歌詞)を「意識」し始めたのは、ずうっ

と後年のことである。

 

 「心に燃えていたけれど、口には言えぬ頃だった‥・」(「りんどうの花咲けば」)

 「さよならと言ったら、黙ってうつ向いていたおさげ髪‥・」(「白い花の咲く

頃」)といったフレーズをラジオの懐メロ番組で聞いたとき、K子と校舎の裏から里山

につながる小道をそぞろ歩いた高校3年の卒業間近な日々を思い出さずにおれなかっ

た。

 

 高校2年で知り合い、忘れられない人になったK子とを結ぶ糸は切れそうになった

り、またつながったり、行く先が見えぬまま歳月は過ぎ行くばかり。

 胸の奥を時折りよぎるやり切れない悲しみ‥・二十歳過ぎの頃であった――。

 

 ある夜は、テレビ東京「懐かしのメロディ」で奈良光枝さんの歌う「白いランプの灯

る道」を視聴し、「歩きなれた、通いなれた敷石道よ。今宵別れの霧が降る‥・」と続

く歌詞とスローテンポなメロディーが、じぃーと心に染み入った。

 

 ――小雨けぶる秋の夕暮れ、図書館勤めを終え、赤レンガを敷き詰めた長い歩道を、

市電の停留所へ向かいながら、K子の面影を追うかのように歩いた情景がよみがえるの

であった。

 

  年齢を重ね、神社勤めをリタイアする前後から、ふと昔を懐かしんでは心休まるのを

覚えるようになった。青春時代を思い出し、ひそかに胸がときめくこともある。

 

 懐メロを聞くと、たちまち昔の光景がよみがえり、懐かしい――そう口になさるお人

も多いように思う。私も同じです。

 

 つい暇を持て余す今日この頃、パソコンの「YouTube 」で、いつでも、たくさんの

懐メロを見聞きできるのが、嬉しい。

 

 今日も朝からしとしと雨を降らせる空を、眺めるともなく仰ぎ、抒情歌をそっと口ず

さみながら、歌詞の情景を思い浮かべては郷愁のようなものに感じ入っている私であ

る。

 

 

 

 

 

 

 

妻の悲鳴

 「父さん、買い物につき合ってくれる・‥」しゃべりながら台所から廊下を横切って

居間へはいろうとした妻は、2センチほどの段差につまづきばたっと倒れ込んだ――折

よくそこに立っていた私が胸で受け止める格好になって無事に済んだ。妻は朝刊の折り

込み広告を見ながら、居間へ来ようと気配りがおろそかになったようだ。

 

 「あれぇ、母さん小さくなったなあ‥・」思わず、妻の背に回した手に力がはいっ

た。

 「苦労かけたからなあ‥・」何センチ背丈が縮んでしまったのだろうか――。背中を

軽くとんとんと叩くようにいたわり、ぎゅっと抱きしめて、離れた。

 

 

 ――あれは‥・結婚して半年後、妻は懐妊した。

 でも、いろんな事情・悪条件が重なってか、2カ月たたずに流産した。

 妻を慰め、体の回復を見守るとともに、私自身も身を慎んだ。

 1年ほど過ぎて、妻は再び妊娠した。本人はもとより、私も同居の養父母も気を付け

ていたが、″流産くせ″でもついてしまったものか、また体調があやしくなってきたので

ある。

 

 ある夜、私が新聞社から帰って、遅い夕食を食べていると、妻が「出血してき

た‥・」と青い顔。

 そりゃ、大変。「病院へ急いで‥・」と養母。

 私は直ぐ、かかりつけの産婦人科に電話で容態を伝え、タクシーを呼ぶ。

 15分弱で到着。妻を抱え込むようにして玄関に駆け込む。

 院長先生と看護婦(師)さんが待っていて、直ぐ手術室へ。

 

 私は、がらんとした待合室に1人待機した。とっくに外来診療の終わった院内は静ま

り返っている。

 

 間もなく、手術室からうめき声がもれてきた。次第に悲鳴に代わる。

 妻の声だ、と気づいた私は、もう、とてもその場に居たたまらなくなって玄関から外

へ50mばかり逃れ出た。

 

 間を見計らって待合室へ帰ってみると、すでにひっそり元の静けさに戻っていた。

 院長先生が私の前に来られて「無事終わりました。かなり出血していたので麻酔が使

えず、やむなく苦痛に耐えてもらうことになりました。お大事に」と丁寧に説明され、

奥へはいって行かれた。

 妻の出血がひどく、やむを得ず麻酔を使えぬまま「そうは(掻爬)」された模様であ

る。

 

 ほっとしたものの、私自身あたかも心臓をカミソリでシュッと切られるみたいな痛み

は、しばらくは治まりそうもなかった。

 

 私は、妻に「よーく頑張ってくれた。十分養生しような」と、ひたすら労わるばかり

であった。

 

 その後、妻は男女二人の子供を私どもに授けてくれた。

 振り返れば、長い道のりをともに歩いてきたものである。

 妻は30代半ばで勤めを辞め、養父母の営んでいた小売店を継ぎ、子供を育て上げなが

ら養父母の面倒を見、無事に最期を見守ることができた。

 三度も脊髄圧迫骨折をしている妻は、養母の介護の無理がたたり、あっという間に背

中が曲がってしまったのである。

 

 6年前、私が神社を退職するのに合わせるかのように養母が他界、小売店も整理し廃

業。やっと老夫婦の余生の明け暮れが始まったのである。

 

 ――身丈の縮んでしまった妻をそっと抱きながら、「母さんありがとうな。長生きし

てくれよ、な」と心に祈るばかりである。

「父の日」と中国産うなぎ蒲焼

 「父の日」の16日朝。スーパー〇〇店の折り込みを眺める妻の後ろから「あんたがこ

の間から食べたい食べたいって言ってるうなぎのかば焼きが出ているじゃない」と声を

掛けた。

 「父さん、お昼どっかへうなぎ食べに連れてってくれる。それとも〇〇店で間に合わ

せる?」

 「出かけるの、おっくうだしなぁ・‥」と尻の重い私。

 「‥なら、〇〇店へ行って、父さんの好きなもの買ったら?。父の日なんだから・‥」

 「特に食べたいもの思いつかんし、父の日言うてねぎらってもらうほど値打ちのある

オヤジでもないしさ。母さんのお好きなように――」何だかんだしゃべりながら、結局

妻と500mほど離れたスーパーへ車を走らせた。

 

 チラシに大きく出ていた「あなご御膳」は既に完売の札。父の日特製盛合せ寿司や弁

当・‥食指動かず。

 

 あれこれのぞいて、うなぎ蒲焼の前で足を止める。国産一尾2,500余円、国産の解

凍・養殖1,900余円なり。

 スーパーのうなぎは久しく買ったことがない。まずいという先入観がある。

 だから「大してうまくない蒲焼に2,500円はもったいないしなぁ」

 ちょっと迷ってから「試しにいっぺん食べてみるか」1尾1,300余円の中国産を買って

帰ることにした。

 

 炊き立てご飯をどんぶりによそってたれをかけ食べた。

 

 「やっぱりまずいや。焼き具合もだめ、たれの味もまずいわ――」

 「ほんとだね、父さん。ただ、うなぎ食べているっていうだけだわ」と妻も同調。

 「スーパーの中国産うなぎ蒲焼を買うのは初めての終わり、これっきりにしような」

 

 中国の危ない工場廃液の中で養殖されているうなぎもある――いつだったか、そんな

週刊誌の写真をふと思い出し、思わず「げぇっ」となった。

 

 私どもは自宅からほど近いうなぎ屋「〇〇川」さんをなれ親しんできた。

 出前もしてくれたし、家族でお店へ出かけたり、来客を案内することもあった。

 

 ところが、昨年夏ご主人が急に亡くなり廃業してしまった。

 

 町内にうなぎ屋は五、六軒あって、うち3軒は行ったことがあるけど、いずれも味に

なじめなかったり、店の雰囲気が暗かったり、やっぱり「〇〇川」さんを長年ひいきに

させてもらっていたのである。

 

 町外へ30分ばかり車を走らせれば繁盛店があるけど、わざわざそこまで‥‥という気

は起らない。

 

 近ごろは、娘が月1回チワワをシャンプーに連れて行ってくれた時、隣市の人気店か

ら蒲焼を買ってきてもらい、「旨いね。焼き具合もたれの味も、この店に限る・‥」口

いっぱい、気持いっぱい、しばし満足にひたる親子3人である。

 

 ――早いとこ、近くに、旨いうなぎ屋さんを見つけなくっちゃ――。

 

 

 

そして 廃家・‥

 自治会の会合が終わって、しばらく雑談になった。

 

 自分の住まいの周りに、ぽつりぽつり空き家が出始めた、と話す人。「うちの隣りも

無人になった」と相づち打つ人。

 

 町のうちは空き家が増えるばかり。一方、町はずれの豊かな農地は次々埋め立てられ

て、住宅会社ののぼりはためき、新しい住宅が1軒また1軒建っていく。

 「近いうち町の住宅地図が塗り替えられてしまいそうだなあ」長老が嘆いて、立ち話

はお開きとなった。

 

 空き家は全国で820万戸を数えるという。日本の総住宅6,063万戸に対して、7件に1軒

が空き家だそうだ。(2014年総務省のデータ)

 

 帰宅して、妻と昼食を食べながら「やがて、うちも空き家に・‥そして廃家になって

しまうんだろうなあ」行く末を思い浮かべて、二人とも何だかしょんぼりしてしまっ

た。

 

 私どもの資産は、今住んでいる2階建て家屋敷と道路を挟んで向かいに2階建て住居兼

倉庫の、ともに小さな二つだけである。

 

 長女はまだ独身だが、隣市にマンションを買って住み、長男は遠く名古屋市に家屋

敷を構えており、恐らく将来二人とも実家に帰り住む日はないであろう。

 

 現在地は、戦時中の空襲で焼け出され裸同然の養父母が、隣町から新しい土地を求め

て移ってきて、やっと家屋敷を手に入れて再出発した。

 妻にとっては第二の故郷であり、いきさつがあって結局は養子縁組した私としても

第二の故郷ということになる。

 

 

 養父母の「こころ」を思い、この家屋敷の行く末を、あれこれ考え、思い迷ったもの

であったが、もう心配しないことにした。

 正直私自身は家屋敷にそれほど未練はない。

 

 相続税が今より軽減されるとは考えられないが、政治も世の中もどんどん移り変わっ

て行くであろう。

 先のことは、二人の子供が考えてくれる。そう悟ってみたら、ちょこっと気楽になった。

 

 

ホトケの徳さん

  顔見知りのA男さんが69歳で亡くなった。新聞の地域版「おくやみ」欄で知った。

 A男さんは温厚なお方で、近隣の困っている方々の面倒もよく見られた。

 地域の人たちから、A男さんのようなお人が市会議員になってくれたらありがたい

のに‥‥と期待されていたようである。

 私が宮司を務めていた「旅の宮」の神賑行事・奉納子供みこしで、当時自治会長

をされていたA男さんに何かとお世話になり、そのお人柄が印象に残っている―。

 

 

 

 ――「旅の宮(愛称)」の氏子総代の中に「〇〇徳松」さんがいた。

 職場の元同僚や親類の人からは、ふだん「ホトケの徳さん」と呼ばれていた。

 人柄は温厚、仕事は黙ってこつこつ。手先は実に器用。めったに不平不満をもらさな

い。

 定年後もしばらくは資格を生かしてボイラーマンを務めていた。そのころからA地区

総代に選ばれていたようで、宮司に就任した私もじきに徳さんの篤実な人柄を見

込み責任員をお願いした。


 徳さんは毎日のように社務所に顔を出し、境内の掃除から建物や水道、電気のちょっ

とした修理まで気づいたことを黙々とやってくれた。私は本当に助かった。

 奥さんは奥さんで、自宅近くのお寺の奉仕に精を出し、まことに徳さん夫婦には頭が

下がるばかりであった。


 ところが、身内の一人が、病気で徳さん宅に転がり込んできてから、不幸が続くこと

になった。

 夫婦は懸命に看病。病院を転々させられるようになると、徳さん夫婦は交代で遠くの

病院まで看病に通った。数年後に病人は亡くなり「これで徳さん夫婦も楽になるなあ」

と私どもうわさしている間もなく、徳さん本人が持病の糖尿を悪化させ入退院を繰り返

す日々に陥った。続いて奥さんもダウン。さらに息子の離婚が重なる。

 おまけに、病が多少持ち直し通院し始めた日、自動車に接触し転倒、足を骨折し

三度目の入院。

 何とも慰めようがなかった。

 こんな心優しい夫婦に、神・仏は何とひどい試練を与えるのか。神主である私が、徳

さん夫婦のお役に全く立たない。「徳さん、済まぬ」おのれの徳・力のなさを嘆くばか

りであった。 

 

 

 その後、骨折も治り、徳さん夫婦は自転車を押しながら「リハビリ中です」と

時々拙宅に立ち寄り、頑張っている様子を報告してくれたりした。

 その徳さんも、先ごろ亡くなった。後を追うかのように奥さんも逝ってしまった。

 

 

 私が、このような試練に立たされたら、どうなんだろう。

 つらい定めと受け止めて、さてその後どうするか。

 

 余生いくばくもない私だが、それでもやっぱり、しぶとく生き抜き、試練に立ち

向かうであろう、と思う。この世に生を与えられたものの務めだから――。

 

 

穴子寿司

 気に入った時代小説を夢中で読んでいても、じきに目が疲れるようになった。

 ごろり、ソファに寝転ぶ。口がさみしい。

 

「うまいもん、食いたいなあ」とつぶやく。

 

「好きなもの食べたらええやないの。どんなもの食べたいの」と妻。

「どんなものって聞かれても‥‥、特に‥‥。やっぱり、じいちゃんの握った穴子

寿司。――食べたいなぁ」

「アハハ!。仏壇の前に行って、頼んできたら?」妻はあきれ顔。

「じいちゃんの娘なんだから、作り方教えてもらっておけば良かったのに。秘伝の

たれ、あれは絶品だったなあ」二人でしばらくじいちゃんを懐かしむ。

 

 

 

 養父(妻の実父)は、私に家業を継がせると、さっさと楽隠居。囲碁三昧の日々

を楽しんでいた。

 家に来客の予定があって、気が向くと自分で軽四を30分ほど走らせ、知り合いの

魚屋からぴちぴちのアナゴを仕入れてくる。

 アナゴを手早く見事にさばく。裏庭にコンロを持ち出し、炭火を起こして、網の

上でこんがり焼く。握ったすし飯にアナゴを乗せ、専用の刷毛で、手作りのたれを

る。

 

 握りたての穴子寿司で来客をもてなし、もちろん家族は食べ放題。

 この穴子寿司、炭火でのあぶり方は絶妙、たれは絶品。まさに養父の秘伝と言えよう。

 

 あちらこちらの店で穴子寿司を食べてみたが、養父の穴子寿司に勝る味には出

会ったことが、私にはない。

 養父の穴子寿司を食した来客から「おじいさんの握った穴子寿司の味は忘れられ

ませんよ」今なおそんな声を耳にする。

 

 養母(故人)に言わせると「あの人は、生涯こつこつと働くだけの人やった。生

一本な性分‥‥単純単純――」なんだって。

 

 養父は若い一時期、病院の賄を勤めた料理の腕前だったらしいが、戦時中軍隊に

召集されて体を壊した。戦後も料理の仕事をしたかったようだが、忙しい料

理人を続けたらまた体を壊すと、転職をすすめたと養母から聞いている。

 

 ともあれ、養父は隠居してからも人を楽しませ、喜ばせるような器量を持ってい

たのであろうと思う。

 

 私にはこれといった″とりえ″(取得。取柄)がない。趣味もない。気力も失せつ

つある。

 そんな自分を叱るでもなく、そっと横目で見ながら、また文庫本を開くのである。

「――愛しているよ‥‥」

 1か月ぶり顔を見せた娘と夕食を囲んだ。

 妻が作った野菜の具たっぷりのみそ汁や根菜の煮物を食べた娘は「久しぶり母さん

の味、美味しかった。ごちそうさま」普段外食に頼りがちで、野菜の摂取が少ないか

ら、たまに家に帰ると母親に野菜料理をねだるのである。

 「母さん、私のマンションへ来て、毎朝ご飯作って欲しいわ」と笑う。

 

 娘が食後、食器を洗いながら「お父さんらは、食事中ちっとも会話がないよな」

 私「子供の頃から、食事中はしゃべるな」としつけられてきたからな」

 娘「なら、せめて美味しかったよ。ごちそうさまぐらい言ったらどうなの」

 私「このごろ大抵毎日、母さん、おいしかったよって言ってるよ。今夜は言いそびれ

たけど‥‥」

 

 いえほんと、です。小さい時分から、食事の時には「いただきます」「ごちそうさ

ま」は家でも学校でも厳しく言われて育った。大人になっても、ずうっと習慣で、たま

に声に出さなくても、口の中では「ごちそうさん」忘れずちゃんと言ってきた。

 これはお前たち娘も息子も同じ。小さい時からちゃんと習慣になっているじゃない

か。

 

 

 退職して、毎日家にいて、腰をかばいながら(※)食事を作る妻の動きを目にすると

「老いたなあ」と気づき、先ごろから自然と素直に「母さん、旨かったよ。ありがとう

な」と口に出るようになった。

  (※)妻はテニスで一度、ダンスで一度、階段を転げ落ちて一度の計3回も脊髄圧

     迫骨折をし、今も外科医に週2回の注射を受けている。

 

 だから、たまには私なりに、パソコンで簡単なレシピを見てちょっとしたおかずを

作ってみたり、スーパーやコンビニの総菜を買いに走って、妻の仕事を軽くするよう気

を配っているつもりだ。

 

 

 さて、翌朝、娘がいつものように出勤途上の車から電話してきた。

 ひと言ふた言雑談の後「お父さん、ご飯の後美味しかったよ、だけでなく、母さん愛

しているよ、の一言を添えてみて。母さんきっと喜ぶわよ。ボケ予防にもなるし――」

と言った。

「そんな照れくさいこと、今さら言えるかいな」と私。

 

 電話を切った後、しばらく思案した。

 

 その日の昼食後、思い切って、何気ない振りして「母さん、今日も美味しかったよ。

ごちそうさま」そして「――愛しているよ‥‥。姉ちゃんが言えと言ったからな――」

言ってみたものの、おお 照れくさい。

 

 妻は「父さん、ありがとう」嬉しそうに答え、そして笑い転げた。

 やはり妻も照れたのだろうか。

 

 さて、一度言ってしまえば、その後はそれほど照れることもない。ほとんど毎食後

「母さん、ごちそうさん。――愛してるよ」すらすら言ってのけては、実は腹の中でま

だまだ照れまくっている私なのだ。