ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

ホトケの徳さん

  顔見知りのA男さんが69歳で亡くなった。新聞の地域版「おくやみ」欄で知った。

 A男さんは温厚なお方で、近隣の困っている方々の面倒もよく見られた。

 地域の人たちから、A男さんのようなお人が市会議員になってくれたらありがたい

のに‥‥と期待されていたようである。

 私が宮司を務めていた「旅の宮」の神賑行事・奉納子供みこしで、当時自治会長

をされていたA男さんに何かとお世話になり、そのお人柄が印象に残っている―。

 

 

 

 ――「旅の宮(愛称)」の氏子総代の中に「〇〇徳松」さんがいた。

 職場の元同僚や親類の人からは、ふだん「ホトケの徳さん」と呼ばれていた。

 人柄は温厚、仕事は黙ってこつこつ。手先は実に器用。めったに不平不満をもらさな

い。

 定年後もしばらくは資格を生かしてボイラーマンを務めていた。そのころからA地区

総代に選ばれていたようで、宮司に就任した私もじきに徳さんの篤実な人柄を見

込み責任員をお願いした。


 徳さんは毎日のように社務所に顔を出し、境内の掃除から建物や水道、電気のちょっ

とした修理まで気づいたことを黙々とやってくれた。私は本当に助かった。

 奥さんは奥さんで、自宅近くのお寺の奉仕に精を出し、まことに徳さん夫婦には頭が

下がるばかりであった。


 ところが、身内の一人が、病気で徳さん宅に転がり込んできてから、不幸が続くこと

になった。

 夫婦は懸命に看病。病院を転々させられるようになると、徳さん夫婦は交代で遠くの

病院まで看病に通った。数年後に病人は亡くなり「これで徳さん夫婦も楽になるなあ」

と私どもうわさしている間もなく、徳さん本人が持病の糖尿を悪化させ入退院を繰り返

す日々に陥った。続いて奥さんもダウン。さらに息子の離婚が重なる。

 おまけに、病が多少持ち直し通院し始めた日、自動車に接触し転倒、足を骨折し

三度目の入院。

 何とも慰めようがなかった。

 こんな心優しい夫婦に、神・仏は何とひどい試練を与えるのか。神主である私が、徳

さん夫婦のお役に全く立たない。「徳さん、済まぬ」おのれの徳・力のなさを嘆くばか

りであった。 

 

 

 その後、骨折も治り、徳さん夫婦は自転車を押しながら「リハビリ中です」と

時々拙宅に立ち寄り、頑張っている様子を報告してくれたりした。

 その徳さんも、先ごろ亡くなった。後を追うかのように奥さんも逝ってしまった。

 

 

 私が、このような試練に立たされたら、どうなんだろう。

 つらい定めと受け止めて、さてその後どうするか。

 

 余生いくばくもない私だが、それでもやっぱり、しぶとく生き抜き、試練に立ち

向かうであろう、と思う。この世に生を与えられたものの務めだから――。

 

 

穴子寿司

 気に入った時代小説を夢中で読んでいても、じきに目が疲れるようになった。

 ごろり、ソファに寝転ぶ。口がさみしい。

 

「うまいもん、食いたいなあ」とつぶやく。

 

「好きなもの食べたらええやないの。どんなもの食べたいの」と妻。

「どんなものって聞かれても‥‥、特に‥‥。やっぱり、じいちゃんの握った穴子

寿司。――食べたいなぁ」

「アハハ!。仏壇の前に行って、頼んできたら?」妻はあきれ顔。

「じいちゃんの娘なんだから、作り方教えてもらっておけば良かったのに。秘伝の

たれ、あれは絶品だったなあ」二人でしばらくじいちゃんを懐かしむ。

 

 

 

 養父(妻の実父)は、私に家業を継がせると、さっさと楽隠居。囲碁三昧の日々

を楽しんでいた。

 家に来客の予定があって、気が向くと自分で軽四を30分ほど走らせ、知り合いの

魚屋からぴちぴちのアナゴを仕入れてくる。

 アナゴを手早く見事にさばく。裏庭にコンロを持ち出し、炭火を起こして、網の

上でこんがり焼く。握ったすし飯にアナゴを乗せ、専用の刷毛で、手作りのたれを

る。

 

 握りたての穴子寿司で来客をもてなし、もちろん家族は食べ放題。

 この穴子寿司、炭火でのあぶり方は絶妙、たれは絶品。まさに養父の秘伝と言えよう。

 

 あちらこちらの店で穴子寿司を食べてみたが、養父の穴子寿司に勝る味には出

会ったことが、私にはない。

 養父の穴子寿司を食した来客から「おじいさんの握った穴子寿司の味は忘れられ

ませんよ」今なおそんな声を耳にする。

 

 養母(故人)に言わせると「あの人は、生涯こつこつと働くだけの人やった。生

一本な性分‥‥単純単純――」なんだって。

 

 養父は若い一時期、病院の賄を勤めた料理の腕前だったらしいが、戦時中軍隊に

召集されて体を壊した。戦後も料理の仕事をしたかったようだが、忙しい料

理人を続けたらまた体を壊すと、転職をすすめたと養母から聞いている。

 

 ともあれ、養父は隠居してからも人を楽しませ、喜ばせるような器量を持ってい

たのであろうと思う。

 

 私にはこれといった″とりえ″(取得。取柄)がない。趣味もない。気力も失せつ

つある。

 そんな自分を叱るでもなく、そっと横目で見ながら、また文庫本を開くのである。

「――愛しているよ‥‥」

 1か月ぶり顔を見せた娘と夕食を囲んだ。

 妻が作った野菜の具たっぷりのみそ汁や根菜の煮物を食べた娘は「久しぶり母さん

の味、美味しかった。ごちそうさま」普段外食に頼りがちで、野菜の摂取が少ないか

ら、たまに家に帰ると母親に野菜料理をねだるのである。

 「母さん、私のマンションへ来て、毎朝ご飯作って欲しいわ」と笑う。

 

 娘が食後、食器を洗いながら「お父さんらは、食事中ちっとも会話がないよな」

 私「子供の頃から、食事中はしゃべるな」としつけられてきたからな」

 娘「なら、せめて美味しかったよ。ごちそうさまぐらい言ったらどうなの」

 私「このごろ大抵毎日、母さん、おいしかったよって言ってるよ。今夜は言いそびれ

たけど‥‥」

 

 いえほんと、です。小さい時分から、食事の時には「いただきます」「ごちそうさ

ま」は家でも学校でも厳しく言われて育った。大人になっても、ずうっと習慣で、たま

に声に出さなくても、口の中では「ごちそうさん」忘れずちゃんと言ってきた。

 これはお前たち娘も息子も同じ。小さい時からちゃんと習慣になっているじゃない

か。

 

 

 退職して、毎日家にいて、腰をかばいながら(※)食事を作る妻の動きを目にすると

「老いたなあ」と気づき、先ごろから自然と素直に「母さん、旨かったよ。ありがとう

な」と口に出るようになった。

  (※)妻はテニスで一度、ダンスで一度、階段を転げ落ちて一度の計3回も脊髄圧

     迫骨折をし、今も外科医に週2回の注射を受けている。

 

 だから、たまには私なりに、パソコンで簡単なレシピを見てちょっとしたおかずを

作ってみたり、スーパーやコンビニの総菜を買いに走って、妻の仕事を軽くするよう気

を配っているつもりだ。

 

 

 さて、翌朝、娘がいつものように出勤途上の車から電話してきた。

 ひと言ふた言雑談の後「お父さん、ご飯の後美味しかったよ、だけでなく、母さん愛

しているよ、の一言を添えてみて。母さんきっと喜ぶわよ。ボケ予防にもなるし――」

と言った。

「そんな照れくさいこと、今さら言えるかいな」と私。

 

 電話を切った後、しばらく思案した。

 

 その日の昼食後、思い切って、何気ない振りして「母さん、今日も美味しかったよ。

ごちそうさま」そして「――愛しているよ‥‥。姉ちゃんが言えと言ったからな――」

言ってみたものの、おお 照れくさい。

 

 妻は「父さん、ありがとう」嬉しそうに答え、そして笑い転げた。

 やはり妻も照れたのだろうか。

 

 さて、一度言ってしまえば、その後はそれほど照れることもない。ほとんど毎食後

「母さん、ごちそうさん。――愛してるよ」すらすら言ってのけては、実は腹の中でま

だまだ照れまくっている私なのだ。

 

 

山のあなたの 空遠く・‥

 

 春風に誘われ、愛犬マロン(チワワ、12歳)と散歩の足を延ばして、町はずれに行っ

てみる。

 眼下に広がる田んぼのかなたに、ふるさとの山並みがかすんで望まれた。

 

 

 ――――私の生家のすぐ前から、田んぼを隔て数百メートル辺りに山並みがでん

と横たわっている。

 子供心に、あの山の向こうには、何があるんだろうか‥‥ときどき思った。

 

 中学生になったころ、村の青年さんらが口ずさむ「山のかなたにあこがれ

て‥‥」や「若く明るい歌声に‥‥」など明るい歌詞を耳にした。ラジオからも歌

が聞こえた。

 高校生時代には「山のあなたの空遠く、幸い住むとひとのいう――」こんな詩に

も、心が揺れた。

 きっと、山のかなたには何かがあるのだ。いつか、あの山の向こうへ行って見よう。

 あこがれた。

 

 何年か後、その稜線の登山道をたどる機会があった。望めば、山の向こうには、さら

に山並みが――。

 がっかりしたけれども、いやいや、あの山々をもう一つ越えれば、その向こう側に、

きっと何かが‥‥。

 

 

 ――――アフターファイブ、映画を見た後はネオン通りをそぞろ歩くのが楽しみだっ

た。

 淡い恋でも生まれそうな春の宵、ちょっと何か起こってもよさそうな、そんな期待に

胸ときめかせながら‥‥。

 でも、やっぱりいつも何も起きることはなかった。

 夜の早い田舎町、しょんぼり自転車を踏んで家路をたどるのが日課みたいな二十歳半ばであった。


 新聞社に転職すると、がらり生活が不規則に。好きな映画ともご無沙汰。

 それでも仕事の上がりが早い夜など、きっと何かありそうな予感がして雑踏に飛び出してさまよってみるのである。

 何も起こらなかった。結局今夜も同僚と誘い誘われて屋台の安酒、そんな一時期もあった。


 

 今、人生のまとめを急がねばならない齢に達したというのに、なまめくような春の宵など、未だにあのころの気持ちを引きずりながら、さ迷い始めそうな自分に気づいて、あきれるのである。

 

 昔、夜の町をさ迷い歩いたのも、いまなお山のかなたにあこがれるのも、おんな

じ。私の人生そのものが、何か得体の分からないものを探し求め歩く旅路なのかも

知れない。

 

 山のあなたの空遠く――。

 

 

 

「山のかなたに」(西條八十作詞、服部良一作曲、歌・藤山一郎。昭和25年)

青い山脈西條八十作詞、服部良一作曲、歌・藤山一郎。昭和24年)

山のあなたの空遠く――」(ドイツの詩人、カール・ブッセの詩)

 若山牧水の短歌「幾山河越えさり行かば――」も好きである。

 

 

 

「趣味は」って聞かれても・‥

 クロマチックハーモニカ奏者 南里沙さんのコンサート(※)に連れってもらった。

 

 クロマチックハーモニカという言葉も聞き初めなら、プロのハーモニカ演奏を聴

くのも初めてである。

 クロマチックとは「半音階」の意味。一本のハーモニカで、全てのキーが演奏できる

″便利な″楽器――これは後刻自宅のパソコンで調べて知った。

 

 演奏が始まる。これは、これは・‥思わず緊張し、ダイナミックな音色に目と耳を集

中した。

 オリジナル曲から映画音楽、童謡・抒情歌まで演奏され、アンコールも予期したとお

り。

 ボディ全長15センチほどのハーモニカと、奏者が一体となった、しなやかな

パフォーマンスに酔いしれた1時間余であった。

 

    (※)[三重ゾンタクラブ設立1周年記念チャリティーコンサートin2019。

      3月16日(土)四日市都ホテル。日本薬膳学会監修「薬膳ランチ」~健美

      和膳~付]

 

 

  私、自分は無趣味だと思っている。

 リタイアして、しばらくはぼおーと過ごしていたが、こんな余生ならつまらない、と

少々焦り出した。じゃ、何かやらなきゃ。あれこれ思い浮かべたが、つまるところ自分

にはこれといった趣味がないのだ、とがっかりした。

 

 私の体は、15年ほど前から心臓疾患や肺気腫を抱えている。

 カラオケで声を出したり、ハーモニカで息を吸ったり吐いたりする運動もよい、と聞

いたことがある。

 

 ハーモニカなら子供のころからなじんでいるし、長続きするかも知れない。さて、

手元にハーモニカがない。迷った末、通信教育ユーキャンのハーモニカ講座をやってみ

ることにした。

 

 一括送られてきた教材とハーモニカを手に、早速始めて見たものの、やっぱり長

くは続かなかった。

 

 またまた、ソファに寝転んで、軽い本を読む――相変らずのぐうたら日々に戻っている。

 

 

「父さんも、ハーモニカ吹いてみたら・‥」コンサートの帰り道、娘が車を運転し

ながら声を掛けてきた。「うん。やってみたんだが、三日坊主さ」と私。

 

「ハーモニカが、あんな素晴らしい楽器だなんて、初めて知った。だって、町内シニア

のハーモニカ同好会の演奏しか知らないから・‥。連れてきてもらって、本当に良かっ

た」と、妻は何度も娘に礼を言う。私も、同じ思いだ。

「薬膳弁当も、美味しかったよなあ」親子3人が口をそろえる。高速道路だけでも

片道2時間余の道中、ほのぼの、車内いっぱい幸せに包まれたひと時。きっと忘れ

得ぬ思い出になろう。

 

 机の引き出しにしまい込んだはずのハーモニカを探し出そう。時々、気が向いたら、

吹いてみよう。今度は肩ひじ張らずに、気楽に、のんびり――。

   

 

反対は、お一人です

 昨年4月から、自治会の会計を務めている。

 この3月いっぱいで任期満了、4月第一日曜日に開催予定の総会で決算報告をし、新年 

度の会計係に会計書類を引き継ぐ段取りである。

 

 私どもの自治区は、住民の高齢化が進み、空き家も目立つ。

 自治会にはいらない世帯も増えて、会員はおよそ50軒にまで減った。

 それを五つに組み分けしている。

 

 自治会の活動も低調、自治会費もずうっと据え置きの毎月600円。

 

 さて、この会費の徴収のことである。

 昔から輪番制で、その月の当番が、月末に1軒1軒回って会費を集め、会計係へ届ける。

 日中は留守宅が多く、1軒のお宅を頂戴するのに何度も無駄足を運ぶこと毎度。

 マンション階段の上がり降り、年寄りにはこれが一番苦になる。

 

 そこで、2年前から(1年分まとめて集めようじゃないか)と、ご近所暗黙のうち

に通じ合って、当番を廃止、その年の組長が4月に1年分7,200円一括集めてしまう組

が増えた。その分会計係も気が楽になった。

 

 ところが、一組だけが、相変わらず毎月徴収である。

 「会計さん、面倒を掛けますね。」輪番だから、毎月違ったお顔の当番さんが、

恐縮しながら納めに来られる。

 

 どうやら一人のお方が「日ごろ、ご近所とのつながりが大事。面倒でも、1軒1軒

顔を合わせる機会があってもよかろう。」と、一括徴収に反対。

 みんな蔭で不平を漏らしながら、面と向かって反論する人はいない。

 それに、反対者も筋の通らない、野暮を言っているわけでもないのだし‥‥。

 

 この反対するお方は、毎年の自治会総会でも、何か一言難しいことしゃべって役

員をあわてさせる。

 ご近所の人たちは、そんな人柄、昔からよーく知っているから、誰も逆らいたく

ないようである。

 

 もし、こんな反対するような人が、私らの組にも現れたら、自分はどんな気にな

るんだろうか。

 賛成多数で押し通すか、しようがないやと反対のお一人に追従するか――。

 

 あぁ、こんな些細なこと、今俄かに思い浮かべることもなかろうに――我ながら

呆れた、今日の夕暮れでした。

 

[さあ、‥‥]とか「ただ、‥‥」だとか、ちょっと何だか‥・

 夜、テレビの歌番組を見ていて、ちょっと気になった。

 

 女性の司会者。「さあ、今週の特集は、昭和〇〇年のヒット曲特集です。さあ、さて

どんな年だったのでしょう」「さあ、まずはこの歌から‥‥」

 

 “くせ“なのか、しゃべり始める度に「さあ、」が出る。

 

 「さあ」は、視聴者を番組に誘い込むのに発する語として使うのなら、冒頭の一回で

よろしい。

 

 連発されると、何だか急(せ)き立てられているようで、落ち着かない。

 

 明るく、てきぱきと、爽やかで気持ちの良い司会ぶりだが、「さあ、」「さ

あ、」だけは、私には少々耳障りに感じられた。(この歌謡番組は、その前にも時々見

ており、いつも気になっていた)

 

 女性司会者さん、ごめんなさい。

 

 こちらは「天気予報」。

 

 たとえば「〇〇県南部も、平野部はおおむね晴れるでしょう。ただ、山沿いではにわ

か雨の所があるかも‥‥」

 

 「ただ、」は、前の事柄について補足したり、理由を説明する”接続詞“である。

 

 数分の天気予報の中で、何度も耳にすると「そこ、省けないの」と漏らしたくなる。

 

 昔よく聴いたラジオのプロ野球中継でも。

 

 たとえば、これもその一つ。いつごろからであったか、あるアナウンサーが「7回表

の大ピンチを、よくしのぎ(凌ぎ)ましたね。」何てしゃべったら、その後あちこちの

民放の実況放送でも「しのぎ」が好んで使われるようになった気がする。

 安易なしゃべり方を毎度耳にすると、興がさめる。

 

 素人の私が、プロのアナウンサーや司会者のしゃべった言葉の端を耳に引っかけて、

とやかく言うのは――申し訳ないことです。

 

 ――書く方でも。

 私が10年ほど勤めていた地方紙I新聞でも、記事の書き方を見直し、勉強し合った時

期があった。

 

 そのころ、よく使われていた、例えば「――このイベントのねらいは、町の発展につ

なげようというもの」とか「事故の原因は、双方の不注意によるもの。」といった具合

に「もの」で記事を終わる。

 

 キリが良さそうな感じで、新人、ベテラン問わず、安易に「もの」を使っていた。

 

 この「もの」を使うのはやめよう――を努力目標にし、間もなく紙面から「もの」は

消えてしまった。すっきりした。

 

 また、「――と見る向きもある。」だとか「――と言われている。」で、記事をまと

めたがる記者もいた。

 

 私も使った。デスクに呼ばれ「ワンちゃんよ。――見る向きっていうのは、どんな向

きじゃ。お前さんかい」。ある時は「――言われているってぇいうのも、言っているの

はあんたお独りさんですかいな」なんて、ニヤリと顔を見ながら、チクリチクリ注意さ

れた。

 

 少しでも良い記事を書こうと切磋琢磨していたけど、この研修会、やがて労働争議

起こり、明日の朝刊発行さえ危ぶまれる泥沼闘争の渦の中へ消えてしまった――。

 

 このような事柄は、普段一般の生活に別に差し障りになることもない、どうでもいい

ような話です。

 

 暇を持て余す老体が、たまにこんな与太話でもつぶやいて、昔の出来事を思い浮かべ

ながら、ひとりノスタルジーのようなものを感じているのでしょうよ。大目に見てくだ

さい。