ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

穴子寿司

 気に入った時代小説を夢中で読んでいても、じきに目が疲れるようになった。

 ごろり、ソファに寝転ぶ。口がさみしい。

 

「うまいもん、食いたいなあ」とつぶやく。

 

「好きなもの食べたらええやないの。どんなもの食べたいの」と妻。

「どんなものって聞かれても‥‥、特に‥‥。やっぱり、じいちゃんの握った穴子

寿司。――食べたいなぁ」

「アハハ!。仏壇の前に行って、頼んできたら?」妻はあきれ顔。

「じいちゃんの娘なんだから、作り方教えてもらっておけば良かったのに。秘伝の

たれ、あれは絶品だったなあ」二人でしばらくじいちゃんを懐かしむ。

 

 

 

 養父(妻の実父)は、私に家業を継がせると、さっさと楽隠居。囲碁三昧の日々

を楽しんでいた。

 家に来客の予定があって、気が向くと自分で軽四を30分ほど走らせ、知り合いの

魚屋からぴちぴちのアナゴを仕入れてくる。

 アナゴを手早く見事にさばく。裏庭にコンロを持ち出し、炭火を起こして、網の

上でこんがり焼く。握ったすし飯にアナゴを乗せ、専用の刷毛で、手作りのたれを

る。

 

 握りたての穴子寿司で来客をもてなし、もちろん家族は食べ放題。

 この穴子寿司、炭火でのあぶり方は絶妙、たれは絶品。まさに養父の秘伝と言えよう。

 

 あちらこちらの店で穴子寿司を食べてみたが、養父の穴子寿司に勝る味には出

会ったことが、私にはない。

 養父の穴子寿司を食した来客から「おじいさんの握った穴子寿司の味は忘れられ

ませんよ」今なおそんな声を耳にする。

 

 養母(故人)に言わせると「あの人は、生涯こつこつと働くだけの人やった。生

一本な性分‥‥単純単純――」なんだって。

 

 養父は若い一時期、病院の賄を勤めた料理の腕前だったらしいが、戦時中軍隊に

召集されて体を壊した。戦後も料理の仕事をしたかったようだが、忙しい料

理人を続けたらまた体を壊すと、転職をすすめたと養母から聞いている。

 

 ともあれ、養父は隠居してからも人を楽しませ、喜ばせるような器量を持ってい

たのであろうと思う。

 

 私にはこれといった″とりえ″(取得。取柄)がない。趣味もない。気力も失せつ

つある。

 そんな自分を叱るでもなく、そっと横目で見ながら、また文庫本を開くのである。