ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)

帰る姿が懐かしい……青春の並木道。

 日没まで間があった。

   知人を訪ねての帰り、急に思い立って、すこし回り道をして、昔の職場辺りをのぞいてみたくなった。

 

 その宝物館の駐車場に車を止め、管理事務所の近くを歩いてみる。

 高い植木に囲まれ、事務所は五十数年前の佇まいそのままに思えた。

 

 事務所から国道へ出るまでは、50m余のなだらかな勾配の砂利道。

 

 宝物館も事務所も小高い丘の上に立っているので、砂利道の途中までは切通し。国道へ抜ける辺りの両側は桜並木だが、事務所から200mほどは土手が左右から迫り、晩秋のこの時期、深い緑に包まれた道はまことに静寂であった。

 

 宝物殿の閉館は、冬場平日は午後4時。パートらしい中年女性が2人、事務所を出てこの道を帰る気配。

 

 なぜか思わず私は「並木の雨」を口ずさんでいた。

 どこの人やら、傘さして、帰る姿の懐かしや……

 今日雨は降っていないけど、あの頃がよみがえる。

 勤め時間から解放された上司や先輩、事務のお姉さん。ある日はその後姿を見送り、時には自分の帰り道でもないのに、その辺りまで肩を並べてしゃべり合いながら歩いて行ったこともあった。

 

 学校を出て就職した先が、この宝物館とは国道を挟んで向こう側に立つ、同じ宗教法人の運営する文庫(図書館)であった。

 勤めだして日を重ねるにつれ、文庫の内情がわかってきた。

法人本部から位置的に離れた言わば”へき地”。文庫の主任も、初老の女子事務員もまるで”島流し”になったみたい、何となく表情暗く、覇気が感じられない。

 

 私の与えられた仕事は、未整理の古文書や新刊図書の分類整理、図書閲覧カード書きや台帳登録。

 もう一つは、閲覧室を訪れた大学の先生から一般人、学生生徒まで、その方々の出された閲覧申し込みカードを握っては本を探して書庫へ出たり入ったり。事務に集中する暇もない忙しい日もあった。

 

 文庫主任は謹厳実直、冗談も言わず、笑った顔などお目にかかることもなかった。細かいことにはよく気がつき、それも自分でやってのける。片や事務のおばちゃんは「古文書のこの字が読めないの。君は大学出てるんでしょ……」と時々あからさまに私をいびる。後日知ったのだが、私の初任給に比べ、10年以上も長く勤めているおばちゃんの月給の方が低かったとか、その腹いせもあったのだろうか。

 

 日ごと朝の出勤が億劫になってきた。

 

 初心もどこへやら。自分が勉強時間の工夫・努力もせず、好きな研究ができない――「お膳立てしてくれない」のを他人のせいにして、楽な道、遊ぶことを覚えた。

 遊びといっても、その頃は映画館に逃避することぐらい。土日はもちろん、平日でも勤務を終えると、足は自宅とは反対の繁華街へ、封切館へと急いだ。

 

 ある日の昼休み。隣の宝物館へふらり立ち寄ってみたら、歓迎された。

 映画ファンの管理事務所主事さんとは意気投合、五つほど年上の女性事務員にも好かれた。先輩とは、芝生に寝転んで人生を語り合う日も。

 

 昼休みを待ちかねて、度々息抜きに宝物館事務所へ出かけるようになった。主事が「君が気兼ねなく管理事務所へ出入りできるよう兼務辞令を申請してやる。」と好意を示され、間もなく文庫と宝物館兼務の辞令が出た。これがまた文庫の人たちからねたまれた。

 

 文庫勤務も3年目。その頃までに全くやる気を失い、もはや限度だと腹を決めた。

 

 縁あって新聞社に転職できた。

 

 思えば、二十代半ば、アフターファイブにはそれなりに楽しみや喜び、若さゆえの行き過ぎもあり、もどかしさ、悲しみもあれこれ経験した。人生は経験の積み重ねである。

 その後の人生に、そんなにムダな3年間だったとは、今も悔いていない。

 

 ともあれ、青春のページを1枚めくり終えた、と思ったものであった。

 

 

☆「並木の雨」 (高橋掬太郎作詞。池田不二男作曲)昭和9年ミスコロムビアの歌でレコード化 されたと何かで読んだ。元の歌も、戦後のリバイバルも聞いたことないけど、小さいころ母親がお針仕事をしながら口ずさんでいたので、私の耳にはなじんでいる。先ごろ「ユーチューブ」でアルフレッドハウゼ楽団のこの曲の演奏を聴き、本当に好きな一曲になった。