ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

さようなら、ターやん。

 ターやんが、亡くなった。

 新聞の訃報欄で見て、びっくり。

 二度三度、読み返した。

 「ターやん」こと田中芳朗さんは元伊勢新聞写真部員(カメラマン)。

 年齢は私より一つ上、入社は2年先輩である。


 なぜか気が合って「おい、ワンちゃん、行こうや」と私を誘い、しょっちゅう二人つるんで(連れ立って)取材に出かけた。

 私が車の運転と記事、ターやんは太った体に重いカメラバッグをぶら下げ、年中タオルでごしごし汗をぬぐっていた。

 ターやんはとても気前よく、毎日のようにコーヒーを飲みに行ったけど、伝票はいつも彼が引っつかんで私には払わせなかった。


 私は、報道部会などそのときの雰囲気に応じて「田中さん」と呼んだが、ふだんは先輩に失礼だとは思いながらも「ターやん」と気安く呼ばせてもらっていた。


 あの事件が起きたのは、52年前の昭和36年3月28日夜、その日私は本社の夜勤で、報道部の受話器を取ったら、現地一報、ターやんのやや上ずった声が飛び込んできた。

 「集団食中毒みたいやけど、ようわからん……。公民館の現場は、えらい(ひどい)状況やで!。写真は撮ったけど…(出稿は)あしたでええやろう」と、叫びながらも、この時点ではまだそれほどあわててはいない様子だった……そんなように記憶している。


 そのころ県警本部記者クラブ詰めだった私は、県警本部の当直に電話で確認したけど、まだ詳細は「わからん」と、無愛想な返事であった。


 原稿の締め切り時刻が迫る。


 整理部の夜勤デスク(私の隣町に今も健在)の判断と指示で、ターやんの現場からの一報だけを、私が十数行の記事にまとめ、まもなく輪転機は回り始めた。


 これが「名張毒ぶどう酒事件」になろうとは〜…私も当夜は深刻に考えず、最終の近鉄電車に駆け込んで帰宅した。