ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

反対は、お一人です

 昨年4月から、自治会の会計を務めている。

 この3月いっぱいで任期満了、4月第一日曜日に開催予定の総会で決算報告をし、新年 

度の会計係に会計書類を引き継ぐ段取りである。

 

 私どもの自治区は、住民の高齢化が進み、空き家も目立つ。

 自治会にはいらない世帯も増えて、会員はおよそ50軒にまで減った。

 それを五つに組み分けしている。

 

 自治会の活動も低調、自治会費もずうっと据え置きの毎月600円。

 

 さて、この会費の徴収のことである。

 昔から輪番制で、その月の当番が、月末に1軒1軒回って会費を集め、会計係へ届ける。

 日中は留守宅が多く、1軒のお宅を頂戴するのに何度も無駄足を運ぶこと毎度。

 マンション階段の上がり降り、年寄りにはこれが一番苦になる。

 

 そこで、2年前から(1年分まとめて集めようじゃないか)と、ご近所暗黙のうち

に通じ合って、当番を廃止、その年の組長が4月に1年分7,200円一括集めてしまう組

が増えた。その分会計係も気が楽になった。

 

 ところが、一組だけが、相変わらず毎月徴収である。

 「会計さん、面倒を掛けますね。」輪番だから、毎月違ったお顔の当番さんが、

恐縮しながら納めに来られる。

 

 どうやら一人のお方が「日ごろ、ご近所とのつながりが大事。面倒でも、1軒1軒

顔を合わせる機会があってもよかろう。」と、一括徴収に反対。

 みんな蔭で不平を漏らしながら、面と向かって反論する人はいない。

 それに、反対者も筋の通らない、野暮を言っているわけでもないのだし‥‥。

 

 この反対するお方は、毎年の自治会総会でも、何か一言難しいことしゃべって役

員をあわてさせる。

 ご近所の人たちは、そんな人柄、昔からよーく知っているから、誰も逆らいたく

ないようである。

 

 もし、こんな反対するような人が、私らの組にも現れたら、自分はどんな気にな

るんだろうか。

 賛成多数で押し通すか、しようがないやと反対のお一人に追従するか――。

 

 あぁ、こんな些細なこと、今俄かに思い浮かべることもなかろうに――我ながら

呆れた、今日の夕暮れでした。

 

[さあ、‥‥]とか「ただ、‥‥」だとか、ちょっと何だか‥・

 夜、テレビの歌番組を見ていて、ちょっと気になった。

 

 女性の司会者。「さあ、今週の特集は、昭和〇〇年のヒット曲特集です。さあ、さて

どんな年だったのでしょう」「さあ、まずはこの歌から‥‥」

 

 “くせ“なのか、しゃべり始める度に「さあ、」が出る。

 

 「さあ」は、視聴者を番組に誘い込むのに発する語として使うのなら、冒頭の一回で

よろしい。

 

 連発されると、何だか急(せ)き立てられているようで、落ち着かない。

 

 明るく、てきぱきと、爽やかで気持ちの良い司会ぶりだが、「さあ、」「さ

あ、」だけは、私には少々耳障りに感じられた。(この歌謡番組は、その前にも時々見

ており、いつも気になっていた)

 

 女性司会者さん、ごめんなさい。

 

 こちらは「天気予報」。

 

 たとえば「〇〇県南部も、平野部はおおむね晴れるでしょう。ただ、山沿いではにわ

か雨の所があるかも‥‥」

 

 「ただ、」は、前の事柄について補足したり、理由を説明する”接続詞“である。

 

 数分の天気予報の中で、何度も耳にすると「そこ、省けないの」と漏らしたくなる。

 

 昔よく聴いたラジオのプロ野球中継でも。

 

 たとえば、これもその一つ。いつごろからであったか、あるアナウンサーが「7回表

の大ピンチを、よくしのぎ(凌ぎ)ましたね。」何てしゃべったら、その後あちこちの

民放の実況放送でも「しのぎ」が好んで使われるようになった気がする。

 安易なしゃべり方を毎度耳にすると、興がさめる。

 

 素人の私が、プロのアナウンサーや司会者のしゃべった言葉の端を耳に引っかけて、

とやかく言うのは――申し訳ないことです。

 

 ――書く方でも。

 私が10年ほど勤めていた地方紙I新聞でも、記事の書き方を見直し、勉強し合った時

期があった。

 

 そのころ、よく使われていた、例えば「――このイベントのねらいは、町の発展につ

なげようというもの」とか「事故の原因は、双方の不注意によるもの。」といった具合

に「もの」で記事を終わる。

 

 キリが良さそうな感じで、新人、ベテラン問わず、安易に「もの」を使っていた。

 

 この「もの」を使うのはやめよう――を努力目標にし、間もなく紙面から「もの」は

消えてしまった。すっきりした。

 

 また、「――と見る向きもある。」だとか「――と言われている。」で、記事をまと

めたがる記者もいた。

 

 私も使った。デスクに呼ばれ「ワンちゃんよ。――見る向きっていうのは、どんな向

きじゃ。お前さんかい」。ある時は「――言われているってぇいうのも、言っているの

はあんたお独りさんですかいな」なんて、ニヤリと顔を見ながら、チクリチクリ注意さ

れた。

 

 少しでも良い記事を書こうと切磋琢磨していたけど、この研修会、やがて労働争議

起こり、明日の朝刊発行さえ危ぶまれる泥沼闘争の渦の中へ消えてしまった――。

 

 このような事柄は、普段一般の生活に別に差し障りになることもない、どうでもいい

ような話です。

 

 暇を持て余す老体が、たまにこんな与太話でもつぶやいて、昔の出来事を思い浮かべ

ながら、ひとりノスタルジーのようなものを感じているのでしょうよ。大目に見てくだ

さい。

主(ぬし)さまは、どんなお人やら…

 ふと気が向いて、人さまのブログをあちらこちらちょっと見して回ることがある。

 

 ジャンルを問わず、タイトルで選んでポッチンする。

 

 

 思わずつまみたくなるようなおやつや、手間かけずに、老体でも真似できそうな総菜

の写真を見ると、つい立ち止まる。

 

 おいしそうなもの、珍しいものを、ちょっとだけ味わってみたいと思うからである。

 

 この写真の料理、どんな女性が、どんな気持ちで手作りしたのだろうか。食卓を囲む

ご主人、お子様方の幸せそうな笑顔を想像して、私もちょっぴり幸せな気持ちになる。

 

 

 

 挿絵を添えた「詩」を、こまめにアップされているお人もある。

 

 メルヘンの雰囲気を感じさせられる、自由詩のようである。

 

 目に触れた小さな草花や小動物、自然現象を題材に、“空に心を広げて“詩にされてお

られるようだ。

 

 まことに純真な、おさなごや乙女(古い表現かなぁ)のような清らかな、優しい心を

持った女性が作詞しているのだろうな、と想像して、私の心を和ませてもらっている。

 

 こんなブログに出合うと、ためらうことなく「はてなスター」をポッチン。

 琴線に大きく触れた時にはコメントして、感動を伝えることにしている。

 

 

 

  東京に住む30代女性のブログ。お出かけやグルメに積極なご気性らしい。

 

 神職経験を持つ私の目を止めさせたのは、神社巡りの記事や写真のアップが多いこ

と。

 

 ある時、パワースポットを訪ねて、遠路出かけた神社の所在地が、なんと私の生まれ

育った三重県南勢部の小さな村。

 大きな神社の別宮で、テレビで紹介されて、にわかに大賑わい。大型観光バスも数台

駐車している光景も日常だとか。

 

 私どもがかくれんぼした子供のころのお宮は、大樹がうっそうと生い茂り、昼なお暗

い、玉砂利の参道が大人でさえ気味悪かった。

 

 その女性の写真付きブログで紹介されていて、びっくり返ったものだった。

 

 

 

  人間、老い先が見えてくると、心も穏やかになって、時には道端の名も知らぬ、小さ

な草花にも愛おしさを覚えるものらしい。

 小鳥にも小動物に対しても然り。冬の沈む太陽を眺めて然りである。

 幼友達、来し方つき合った人々や出来事、一つ一つが懐かしく、忘れがたく、愛おし

ささえ覚えるのである。

 

 それと同じように、心の奥に触れたブログを毎日読んでいると、顔も名も知らぬブ

ログの主さまに、ちょいと声をかけてみたくなるような、時には淡い愛おしさにも似た

親近感を抱くようになる。

 

 そして、ふと我に返って、少し戸惑ってみたりするこの頃である。

 

 

きさらぎのおもいで

 昼下がり、愛犬チワワ「マロン」と散歩に出かけた。

 

 空に雲なく、何だか「春、遠からじ」を覚える暖かく穏やかな日差しがまばゆかった。

  (でも、しばらくは油断は禁物。寒さのどん底は、まだこれからだ。)

 

 節分が過ぎ、2月11日の氏神様の獅子舞神事が終わると、私どもの地方には春の足音が日に日に近づいてくるのが実感できるようになる。

 

 

 私が生まれ育った村でも、毎年2月の11日は「じんじ(神事)」と呼ばれ、村中が仕事を休んで氏神様の例大祭を祝い合う、いわば「ハレの日」であった。

 

 私が小学生のころには、まだこんな厄年払いの風習が残っていた。

 親が厄年の年に生まれた子供を「捨て子」にするのである。

 両親はその子供を村はずれの辻(分かれ道。十字路)に捨てる。

 それを近くの親戚が拾い上げて15歳まで育てる。親戚が厄をもらってやる――という形だけの厄払いが残っていた。

 

 私どもの住まいから200mほどに母の実家があって、そこの長男の男の子を「拾って」いたのである。

 

 「じんじ」の日になると、我が家では心づくしのごちそうをつくって「捨て子」を迎え、にぎやかにおもてなしする。

 

 夕飯時が近づくと、長男の私が「捨て子」を迎えに行く。

 

 その子を座敷の上座に、私ども家族と談笑しながら食事をともにし、その後はゲームなどしてひと時過ごし、また私が送って行くのである。

 

 四つ年上のお兄ちゃんから面白い話も聞かせてもらえる、待ちに待ったうれしい一日であった。

 

 

 そんな村の厄払い風習もとっくになくなり、お兄ちゃんも先だって、病を得て、あの世へ旅立ってしまった。

 

 きさらぎ半ばの、小雨降る夕方、寒さに凍えながらも楽しい期待に胸躍らせながら、「捨て子」のお兄ちゃんを出迎えに行った遠い日の思い出。老いの胸にふとよみがえるのである。

 

 

「終活年賀状」は、書かない‥‥

 「終活年賀状」の文例が、ネット上で見られるようである。

 

 二三年前から、私の手元にも何通かの終活年賀状が届くようになった。それに、ことしも既に十二三通の喪中はがきも来ている。

 

 それやこれやも加えて宛名名簿を整理してみたら、私も妻もそれぞれ100枚を切ってしまった。

 

 何だか身の置き所が狭く縮まったみたいで、心寂しい気がする。

 

 「筆まめ」で宛名もデザイン面も作成し、印刷も終わった。

 

 これから1枚づつ一筆書き入れる心づもりでいる。

 

 日ごろご無沙汰の先輩、友人、知人の顔を思い浮かべながら、ひと言書き添えて、懐かしんでみたい。

 

 

 5年前に現役を退いたとき、(これから毎日1枚ずつ、友人にはがきで便りを書こう)と思いつき、初め二三通は、何となく心弾むひと時を持つことができた――とうなづいたものだったが、あっけなく棒を折らせてしまった。

 

 自分の気持ちとしては、年賀状はその埋め合わせみたいなものでもある。

 

 

 今のところ、終活年賀状を書く気はない。

 

あとひと口、もうひと口

 所用で隣市へ40分ほど車を走らせたが、相手の急な都合で2時間近く待たなければならなくなった。

 

 午後1時を過ぎていたので、どこかで腹ごしらえをすることに。

 

 久しぶりに、みそラーメンと餃子でも食するか――と、カーナビで最寄りの中華料理店を検索するが、あいにく定休日の店が多く、やっと住宅街に夫婦で営業する店が開いていたので立ち寄ってみた。

 

 「野菜たっぷりのみそラーメン」とお品書きにあったので、それと焼き餃子を注文した。

 

 ラーメン・餃子は、新聞社時代の二十歳半ばから、手軽な昼食として、つい度々、出前してもらったものである。

 

 運ばれてきたキャベツなど野菜を山に盛り上げたみそラーメンを見て、思わず「うへぇ、これはこれは‥‥」と驚くと、若い奥さんは「餃子は食べ切れなかったらパックでお持ち帰りください」と親切に声をかけてくれた。

 

 餃子一つを口に入れたが、ジューシーで「うまい!」。しかし、どう見ても、具一杯詰まった餃子一皿6個は食べ切れそうもない。

 

 最近とみに食が細くなってきているからである。

 

 せっかく作ってもらったラーメン。食べ残すのはもったいないし、失礼でもある。

 

 ともかくラーメンをすすり込む。キャベツはばりばりかみ砕く。いい味加減のスープだったが、これは思い切って飲み残す。

 

 「あと、ひと口」「あと、ひと口」と頑張って、ラーメンはどうやらほぼ完食した。

 

 ころ合いを見て奥さんが「残された餃子はパックへお入れしましょう」と、余分にタレの小瓶までつけ加えて、気軽に包んでくれた。

 

 若いご夫婦が営む、気配りのうれしい、アットホームな小さな中華料理店であった。

 

 

 それにしても、食べられなくなってしまったものである。

 

 若いころには餃子をもう一皿プラスして食べたいと思ったほどだったのに――。

 

 近ごろでは、外食の機会もめっきり減った。一人前が食べ切れないから、つい出かけるのもおっくうになるのである。

 

 かと言って、食に関心をなくしたのではない。食べたことのない、美味しそうな写真を見ると「旨いものを、ちょっとだけ味わってみたい」と興味津々。

 

 新聞の折り込みチラシには目を通すし、インターネットのブログでも腕自慢の料理記事は一読する。

 

 

 ――気に入った料理は、食べ終わってから「もうひと口、余分に食べたかったになあ~」と、ちょっと物足りなさを感じた、若いあの頃の食欲を、今は懐かしくさえ思うのである。

 

生かされてます‥‥

 月半ばから、何かとせからしい――老体には、気疲れを覚える日が続いた。

 

 総合病院で私の抜歯。次いで妻が健康診査で血圧が高すぎる、心臓病が懸念される、と内科からの紹介でハートセンターへ急ぎ回され、心臓エコーやCT検査など丸一日不安な時間を過ごしたのである。

 

 

 まず抜歯。左下奥歯の具合が悪く、数年も前から最寄りの歯科へかかっているが、良くなるどころか益々虫食いが進んでいる感じだ。

 朝起きると、口中に苦い液がしみ出している。

 

 

 私は心臓を患い、血液の凝固を防ぐバイアスピリン錠を服用しているので、歯科医は抜歯をためらってようである。

 

 そうこうしているうちに、今度は左上奥歯2本がぐらぐらになって、食べ物が満足に噛めない状態に陥った。

 

 歯科の先生も、やっと「日赤か市民病院で抜歯して来てもらおうか」と踏ん切りをつけられたか、赤十字病院に予約を入れてくださった。

 

 指定されたのは翌日朝一番。先生に書いてもらった紹介状を持って、翌朝車を走らせた。

 

 赤十字病院の歯科口腔外科。問診の後、放射線科でレントゲン写真を撮った。

 

 「一番早いオペは、明日でも出来るけど‥‥」とドクター。

 「はい、結構です。明日お願いします、先生」

 「じゃ、明日午後1時、外来へお越しください」

 

 翌日午後1時前に歯科口腔外科の受付を通ると、すぐ主治医に呼ばれた。

 「念のため血液検査をします。梅毒やHIVの感染を予防するための検査で、患者本人の同意を必要とします」

 すぐ採血に回る。

 

 先生に案内されて3階のオペ室へ。

 手術着に着かえさせられ、手術台へ上る。

 本格的なオペの気配。緊張する。

 

「 30分ぐらいで終わります。力を抜いて、気を楽に‥‥」と先生。

 強いライトを当てられる前に、そっと周りに目をやると医師2人、看護師3人の姿を認めた。

 

 手順や麻酔薬の使用量などいちいち声に出して確認しながら、抜歯は予定通り無事終わった。

 

 

 私の2本の奥歯を抜くために、多くの医師、看護師さんや技師の方の手を煩わせたのである。

 

 心から感謝せずにはおれない、ありがたい気持ちである。

 

 今の世の仕組みでは普通のことかも知れないが――。

 

 

 「人は、一人では生きて行けない。みんなに生かされているのだ」今さらながら、人の世に思うのであった。