ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

まぼろし?の善行‥‥

 JR西日本の駅員さんが勤務中、酒に酔って寝ていた女性を救護室に連れ込んで乱暴したとしてクビになったあげく警察に逮捕されたという新聞記事が目に触れた。

 

 昔から「人の世に盗人と痴漢は尽きぬ」とか言われるが、いつの時代にも、良からぬ気を起こすやからは絶えないようである。

 

 新聞紙面では、善行(美談)記事と言うのも時々見かける。

 善い行い―道徳にかなった行い(広辞苑)が善行であろう。

 

 新聞記者になりたての頃、一日も早く、一本でもいいから、自分の書いた原稿を紙面に拾い上げてもらおうと、それこそ四六時中神経を張り詰めて、耳寄りな話題を漁っていた。

 

 自宅の最寄りの駅から、I新聞本社のあるT市までは、私鉄電車に1時間ほど揺られて通勤していた。

 

 ある日、社内に回ってきた専務車掌は高校の同級生。

「やあ、久しぶり。まあ、来いや‥‥」と社内が空いているのをいいことに、私を車掌室のそばへ誘った。

 しばらくはクラスメイトの近況などしゃべり合っていたが「お前、記者してんだったなあ。じゃあ、こんな話記事にならんか?」

 

 彼の話を聞いてみると、つい先日、特急に乗車勤務し、社内を回っていると二十歳前の女性客に、前席の男から嫌がらせを受けて困っている。助けてほしいと訴えられた。

 

 その中年男は酒気も帯びているようなので、彼は腰を沈めると男の耳元に「いい加減にしろよ」と周りに聞こえぬ低い声で注意した。

 彼は高校の柔道部で鍛えた大柄なたくましい体であるから、相手もビビったことであろう。

 

 

 念のため、その女性を車掌室近くの空きシートに案内し座らせ、女性の降車する駅まで見守ったという。

 

「いい話じゃないの。記事になるよ。」

 

 車掌の彼から、女性はI市の観光旅館○○の娘だと名乗っていたと聞いたので、私は早速電話でコンタクトを取り、本人を自宅に訪ねて事実を聞き「記事にしてもいいですね」と念を押す。

 

 

「あの時は本当に親切にしていただき、車掌さんには感謝してます。どうぞ記事にして褒めてやってください」と笑顔で送り出された。

 

 彼の所属する列車区の上司にも会って出来事を話すと「それは結構な話。会社の表彰の対象になるでしょう」と喜んでくれた。

 

 彼の顔写真を付けた記事は「親切な車掌さん」だったか、大きな見出しで紙面を飾った。

 

 

 ところが、1週間ほどたって、私を名指しで編集局にかの女性から電話がかかってきた。

 

 受話器を取ると「あの記事で迷惑している。」と、これはこれは大変お冠。あの日の笑顔と打って変わり、大いに怒っていなさるのである。

 

 なだめて話を聞いてみると、あの当日彼女は通っている専門学校を無断欠席、0市へ買い物に出かけた帰りの出来事だったので、ずる休みが親せきや先生、友人にばれてしまい、大目玉を食うやら冷やかされるやら大変迷惑している‥‥。(それが昭和30年代の世間一般の道徳意識であったろう。)

 

 「それは相済まぬ結果になって、申し訳ないことです。」こちらはとにかく丁寧に謝って電話を切ってもらった。

 

 

 善い行い――と思っても、それを公にすると、その波紋はあちらこちら思わぬところに広がるものだなあ‥‥つくづく反省させらた。

 

 

[取材の合間(同行カメラマンが写す)]

 

 

故郷の廃家

 「故郷は遠きにありて思うもの‥‥」(後略)

 

 これは室生犀星の「小景異情」という詩の冒頭部分で、内容は寂しい詩なんだそうである。

 

 

 私のふる里は、市町村合併で今では私の住まいと同じ行政区域内――同じ市内である。

 指呼の間と言ってもいいほどの距離で、車をゆっくり走らせても二十数分で実家に着く。

 

 

 旧盆中の道路混雑を避けて先日、妻を同乗させ、墓参に里帰りした。

 

 実家の数百メートル前に、大きな真っ黒い和牛がどっかり横たわるような重厚な山並みが、昔のままの姿で出迎えてくれたようで、懐かしかった。

 

 近くても、ふる里はいいものだ。

 

 

 昼飯を馳走になり、実家を守る弟夫婦と世間話は尽きず、数時間あっという間に過ぎた。

 

 

 亡父の姉が嫁いでいたOO家(親戚)の後継ぎが先ごろ他界し、後には住む人もなく、閉ざしたままであるという。

 

 

 OO家は男4人、女1人の子供があったが、みんな県外に出て一家をなし、4男が家を継いで2人の女の子を授かっていたが早くに妻と離婚、男手一つでその娘2人を育て上げて嫁がせ、後は男のひとり暮らしであった。

 

 

 訃報を伝えても駆けつける兄たちの姿もなく、近くに住む濃い親戚だけで葬儀を済ませ、位牌は祖霊社(神式葬儀社)に永代供養をお願いしたという話である。

 

 

 子どもの頃、「〇〇兄ちゃん、遊んで‥‥」と、私より一つ年上の3男を訪ねると、奥の居間にどんと腰を据えた父親が「おお、〇〇(私の名前)来たか」とニッコリ迎えてくれたもの。嬉しかった。

 

 その父親の没後は、長男から次々と家を出て行ってしまい、末弟の4男がやむなく残って家を守っていたのであった。

 

 

 敗戦後の「家」の崩壊――時代の流れ、とはいえ、私どもの年代にはちょっと心寂しい気がする。

 

 

 帰りの道すがら、村の中ほどに立つOO家に目をやれば、玄関も雨戸も閉ざれたままであった。

 

 

 「幾年ふるさと来てみれば‥(中略)荒れたる我が家に住む人絶えてなく――」(故郷の廃家)を思わず口ずさんでいた。

 

心の罪・業(ごう)・心の傷‥‥

 広島は8月6日、長崎は8月9日、ともに原爆投下(被爆)から73年の「原爆の日」。

 

 原子爆弾が永久に使われないことを、ひたすら祈るばかりである。

 

 澄み切った夏空を眺めていると、私は藤山一郎さんが歌った「長崎の鐘」(古関裕而作曲。昭和24年発売)を思い浮かべ、思わず口ずさむ。

 カラオケでも歌う大好きな一曲である。

 

 映画にもなり、映画館のスクリーンでも見たし、DVDも持っている。

 

 作詞はサトウ・ハチローさん。歌詞の中に「こころの罪を打ち明けて‥‥」という一節がある。

 前後にロザリオの鎖とかミサの声、十字架といったフレーズがあるから、ふだん何気なく歌ってきたものの、「召されて天国へ旅立った」永井隆博士の奥様はクリスチャンであったことが想像される。

 

 昔見たアメリカ映画で、どんなシーンだったか忘れたけど、主人公が瀕死の友人にささやいたセリフ「人はそれぞれ十字架を背負って生きているんだ‥‥」が今も記憶に残っている。

 

 

 また、人の業(ごう)という言葉も、日常の会話で使われてきた。

 

 これらの言葉はキリスト教や仏教の考え方に結びついていくようである。

 

 「こころの傷」という言葉の使い方もある。

 

 私も心の片隅に小さな古傷を秘めている。

 

 普段は意識しないけれど、「長崎の鐘」の「こころの罪を‥‥」を口ずさむと、そのこころの傷もチクリと痛むことがある。

 

 

 あれは新聞記者駆け出しのころ、特ダネをあせって人の心に傷をつけてしまったのである。

 

 当直のある冬の夜、所轄警察署をのぞいて平穏を確かめ、本社へ戻る途中ふと赤ちょうちんの前に通りかかった。

 

 当直室へ帰っても冷たい部屋が待っているだけ。つい誘われるようにふらふら足を踏み入れ、好きでもない熱かんを注文した。

 他に客の姿はなく、手持ち無沙汰のママさんがヤマ勘を働かせて「兄さん、いまごろ‥‥そこのI新聞の記者さん?」と話しかけ、しばらくすると「耳寄りな話聞かせてあげようか」ともらしてくれた。

 

 公務員の今でいう「パワハラ」のネタ。ただし被害者は、役所と取引ある弱い立場の一般人で、その顔を殴打したというものである。

 

 翌日から関係者を回って取材した。正式に告訴されていること、当事者、上司などから確認を取り「本人も反省しているので、何とか穏便に」と上司から頭を下げられたのも無視して事実だけ記事にした。もちろん関係者の名は匿名である。

 

 このパワハラ事件?は、起訴されなかった。

 

 

 日がたつにつれ、私の心は痛んだ。社会に少しでも警鐘鳴らすほど価値のある記事であっただろうか‥‥。当事者(加害者)の心と将来に傷をつけただけに終わったのではなかったろうか。

 

 

 この記事をきっかけに、その後私は「人さまの心に傷をつけないよう。できれば心温まる明るい話題を求め」一層慎重に記事を書くことに努めた。

ひんやり‼抱きまくら

 前々から「欲しいなぁ」と思っていた抱き枕。

 

 「はい、父さんプレゼント!」思いがけず娘が、それもニトリのNクールまくらを買ってきてくれた。

 

 「これは、これは。おおきにありがとう‥‥」

 

 何だか私の心の内を見透かされていたみたい。やっぱり親子、気脈が通じるというものかなぁ‥‥。

 

 

 就寝のころ合いを待ちかねて、ちょっぴりわくわくしながら布団へはいって、枕を抱く。

 

 

 ひんやり――こりゃ気持ちいいや。顔がほころぶ。

 

 

 私は若いころから素っ裸に寝間着やパジャマを引っかけ、大の字になって眠るのが好きであった。

 

 しかし、肺気腫、心臓弁膜症を発症してからは、長い時間大の字で寝る姿勢が保てなくなり、夜中にごろんごろんと、左向きになったり右向きになったり、なかなか深い眠りにはいることができない夜が多い。

 

 だから肩こりも益々ひどい。

 

 抱き枕すると、多少肩の痛いのが緩和されるみたいな気もしないでもない。

 

 それに、何だか気持ちがすっかり落ち着いて、母の懐へ抱えられたような幸せな心持ち‥‥。

 

 はて、さて‥‥。両手両足で枕を抱きかかえ、からだをエビのように折り曲げて寝る、この姿勢。

 

 そうだ、母の胎内にいる形じゃないか。

 

 それで海の底にいるみたいに気持ちが静まるのだろうか‥‥。

 

 何だかんだ考えているうちに、今夜も眠ってしまうようである。

 

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 ☆写真(上)は、頭も支える抱きまくら(やわらか)幅45㎝、長さ115  cm。㈱ニトリ。娘はこちらも一緒に買ってくれた。

 写真(下)は抱きまくらNクールHポーラベア。長さ68cm、径20㎝。㈱ニトリ

 

――お恥ずかしや・・・

   妻に探し物を頼まれ、倉庫のあちこちを探し回っていたら、肝心の頼まれ物は見つからず、代わりに私の懐かしいものが出てきた。

 

   大きな段ボール箱に詰め込んだ新聞のスクラップブックが数十冊と4冊の文芸雑誌。

   スクラップブックは、私が新聞社に在職中書いた連載企画記事がほとんど。文芸雑誌は高校時代に図書クラブが編集発行したものである。

 

    その文芸雑誌のうち3冊は週刊誌大でガリ版刷り、1冊はB5の活版印刷という体裁である。

 

 私が高1の時創刊されて、夏休みの宿題で書いた私の小説?も掲載されている。2年生の時第2号ができて、それにも私の小文が載っている。

 

 今読み返せば、何とも幼稚な文章の羅列である。

 

 第3号、第4号は高3の時代。この文芸雑誌の編集がしたくって私は図書クラブにはいって、部長として思うままにふるまった。

 

 第3号に発表した、男女の愛の遍歴?をテーマにしたつもりの私の短編だが、印刷所が気を利かせて、勝手に男女が抱擁する挿絵をでかでかと載せたので、さあ大変‥‥。

 

 納入された雑誌を開いて、私が青くなって震えたのはもちろんだが、学校内も騒然。朝一で校長室へ呼び出された。

 

 「こりゃ、何だね。挿絵は君が指示したのか――」

 「いいえ、全く身に覚えのないことで‥‥」いきさつを説明する。

 「小説の中身も問題だね。中でも″コオロギの交尾のような交わりを繰り返し‥‥”っていう表現、こりゃなんじゃ。そもそも、君はコオロギの交尾を見たことあるのかね」と校長から大目玉を食った。

 

 農村に生まれ育った私だって、コオロギの交尾何て見たことない。恋愛の経験はおろか、女性と一対一で話したことすらない”純情”少年である。

 

 過去に読んだ小説の表現をあれこれ思い出しながら、全く想像で書いたものであった。

 

 校内に出回ってしまったものは仕方がない――ということで、いつの間にかこの問題、何となく終息した。(私が真面目な?生徒会会長だったからかも)。

 

 

 私は今でも、このページを開くたびに「うひゃぁ、お恥ずかしや」と我ながら五体隅々まで真っ赤になって、読むのをためらってしまうのである。

 

 かといって、この雑誌は捨てられない。多感だった時代の「思い出の品」として、捨てるのが惜しいのである。

 

 そんなわけで、今までスクラップブックと一緒にしまってきたのである。

 

 

 私は国語が好きだということもないし、作文が上手でもなかった。

 中3の時、修学旅行で奈良・京都方面へ出かけた感想文を書くよう国語の先生からクラス全員に宿題が出された。

 

 「上手に書けました」と先生は私の作文をみんなの前で朗読して聞かせてくれた。

 

 

 その時から、にわかに私は作文好きになった。

 

 

 「好き」と「上手」とは別物。私は、どうやらそこのところ思い違いしてしまったようです。

 

 高校1年生で小説を試みたり。高3になると、もういっぱしの文学青年気取り、ううんと背伸びして、臆面もなくペンを走らせていたのであろう。

 

 あの時代の文章を見ると、本当に消え入りたいほど恥ずかしくなる。

 でも、あの頃はあのころで、深刻にテーマを追求し(――したつもり)、かっか燃えながら書いたのである。

 

 

 新聞記者になって毎日書くことが仕事になっても、満足に書き上げたと思える記事は一本もない。

 

 書いたその時は「やった、書けた」と思って出稿するのだけれど、後日読み返すと「もっとこう表現すりゃ良かったなあ・・」といつも悔やむのであった。

 

 

 ――自営業に転職すると、数字相手に電卓をたたく毎日。文章には縁遠くなってしまった。

 

 

 その後、神職の勤めをいただくと、再び文章を書く機会が多くなった。年5回発行する神社の社報づくりは、パソコンで記事を書き、編集して印刷所へ回した。

 

 記事は何度も推敲したつもりでも、さて出来上がった紙面を見ると、相変わらず(ここはこう書けばよかったのに)と後悔ばかり。満足したことは一度もなかった。

 

 

 いつまでたっても自分の文章に満足できない私。情けない。

 

 そう思いながら、やっぱり私はこれからも拙文を披露して行くのであろう。

にわとりの いのち

  夕食のおかずは、鶏肉と野菜の炒め物。

 

「やっぱりもも肉が一番旨いや」とつぶやいたら、食卓の足元で飼い犬のチワワも、私のズボンのすそを前足でがしがし引っかきながら「ボクも相伴させてよ」(?)と催促する。

 

 妻が「マロン(愛犬の名前)もこのごろぜいたくになったのか、ささみをやっても、フンと匂いを嗅ぐだけで食べない日がある・・」とぼやく。

 

 犬まで贅沢な世になったものだ‥‥。自分らの子供の時分は、なあ、母さん‥‥。

 

 小さな村の農家に生まれ育った私。物心ついた時からにわとりや番犬、牛などが同じ屋敷内に飼われて、家族同様に暮らしてきた。うさぎやヤギを飼った時期もある。

 

 朝になると鶏小屋は開放し、数羽の鶏は広い庭を自由に動き回って虫などついばんで楽しんでいるようであった。

 

 小学生だったある朝、登校しようと身支度する私の足元へ、いつものように駆け寄ってきて「コー、コッコ」とあいさつするかのように鳴いてちょこちょこ数歩見送ってくれた老鶏。

 「行ってくるからな」と思わず私も片手を挙げながら通学路へ駆け出すのが朝の習慣みたいなものだった。

 

 

 そんな暮らしのある日、学校から帰ると台所からプーんといい香り。「お母ちゃん、今晩はカレー?」と確かめて、つばを飲み込む。

 

 さて夕食。久しぶり、鶏肉のはいったカレーはとてもおいしく、がつがつ食べてお代わりをした。

 

 

 翌朝、いつも足元へ寄ってきては、登校する私を見送ってくれるあの老鶏の姿はなかった。(そうか、やっぱり夕べの肉は‥‥)ちょっとさびしい気がした。何だかやり切れない気もした。

 

 でも、子ども心――そんな気持ちは、すぐに消えてしまった。

 

 

 その頃、村内に肉屋などなく、牛肉なんてチンチン電車に30分も乗って町まで出かけなきゃ手にはいらない。

 

 私ども農家のタンパク源は、飼っているにわとりを自分らの手でつぶして食して賄ったのである。それが普通の暮らしであった。

 

 

 成人して、新聞記者のころも、勤めを辞めて家業(妻の実家)の自営業に励んだ時代にも、日々の仕事が精いっぱいで、食のことなど考える心の余裕はなかった。

 

 

 人生半ば、乞われて神職となり、食のことも考える機会がふえた。

 

 ――食べ物への感謝の気持ちである。

 

 ――私ども人間は、様々な動物の命をもらって生きている‥‥。

 

 平成22年、宮崎県南部であったか、口蹄疫(こうていえき)が流行り、病気にかかったと見られるたくさんの牛が鼻輪を棒杭にくくり付けられ、次々と注射を打たれると、ひと声の悲鳴もなく、どさりどさりと倒れていくテレビニュースを、私は正視するにしのびなかった。

 

 今も脳裏から消えることのない、やり切れない光景であった。

 

 老いて、食も次第に細くなっていくこの頃、「母さん、柔らかくって、うまぁーい牛肉か鶏のもも肉買ってきてよ。値段ちょっと張ってもいいじゃない」とスーパーへ出かける妻に、つい甘えて注文をつけてみたりする。

 

 そんなこと言った後で――遠いあの日、つぶされ、肉はカレーの具となって、私ども家族の胃袋を満たせてくれた老鶏を、ふと、そおっと思い出してみることがある。

 

 

虫が起こる・・・

 二三カ月前から読書虫?が起こっている。

 

 リタイアした今、読書と言っても肩の凝らない時代小説――チャンバラ小説である。

 

 佐伯泰英葉室麟、稲葉稔、鳥羽亮から昭和三四十年代の山手樹一郎まで、読み出したらやめられない止まらない「カッパえびせん」CMみたいである。

 

 朝飯が済むと、文庫本抱えてソファに座り込む。家内に用事を言いつけられても上の空。昼飯をかけ込むと早速続きのページを開く。

 

 夕方までに700余ページを読み終えると、やっぱり老眼は疲れ果てる。肩は凝る、腰は痛い。立ち上がるとふらっと体が揺れる‥‥。

 

 アマゾンや宅配の人々には「毎度ご苦労様」感謝に耐えない。

 

 

 本が読みたい、と思うともう我慢できないのである。

 

 いや、読書に限らない。

 

 血液型はB型である。B型は「熱しやすいが、飽きやすい」とか。この性分は子供のころからで、祖父母から「父親そっくりだ」と笑われたのを覚えている。

 

 いくら歳を重ねても、これは子供のままである。

 

 やらなければならない雑用が一杯たまってきた。(読書は一服しよう)と自分に言い聞かせながら、今朝もパソコンを開けば、ついアマゾンの「本」検索にキーを合わせてしまうのである。

 

 さて、今回の虫はいつごろ納まるやら‥‥。