にわとりの いのち
夕食のおかずは、鶏肉と野菜の炒め物。
「やっぱりもも肉が一番旨いや」とつぶやいたら、食卓の足元で飼い犬のチワワも、私のズボンのすそを前足でがしがし引っかきながら「ボクも相伴させてよ」(?)と催促する。
妻が「マロン(愛犬の名前)もこのごろぜいたくになったのか、ささみをやっても、フンと匂いを嗅ぐだけで食べない日がある・・」とぼやく。
犬まで贅沢な世になったものだ‥‥。自分らの子供の時分は、なあ、母さん‥‥。
小さな村の農家に生まれ育った私。物心ついた時からにわとりや番犬、牛などが同じ屋敷内に飼われて、家族同様に暮らしてきた。うさぎやヤギを飼った時期もある。
朝になると鶏小屋は開放し、数羽の鶏は広い庭を自由に動き回って虫などついばんで楽しんでいるようであった。
小学生だったある朝、登校しようと身支度する私の足元へ、いつものように駆け寄ってきて「コー、コッコ」とあいさつするかのように鳴いてちょこちょこ数歩見送ってくれた老鶏。
「行ってくるからな」と思わず私も片手を挙げながら通学路へ駆け出すのが朝の習慣みたいなものだった。
そんな暮らしのある日、学校から帰ると台所からプーんといい香り。「お母ちゃん、今晩はカレー?」と確かめて、つばを飲み込む。
さて夕食。久しぶり、鶏肉のはいったカレーはとてもおいしく、がつがつ食べてお代わりをした。
翌朝、いつも足元へ寄ってきては、登校する私を見送ってくれるあの老鶏の姿はなかった。(そうか、やっぱり夕べの肉は‥‥)ちょっとさびしい気がした。何だかやり切れない気もした。
でも、子ども心――そんな気持ちは、すぐに消えてしまった。
その頃、村内に肉屋などなく、牛肉なんてチンチン電車に30分も乗って町まで出かけなきゃ手にはいらない。
私ども農家のタンパク源は、飼っているにわとりを自分らの手でつぶして食して賄ったのである。それが普通の暮らしであった。
成人して、新聞記者のころも、勤めを辞めて家業(妻の実家)の自営業に励んだ時代にも、日々の仕事が精いっぱいで、食のことなど考える心の余裕はなかった。
人生半ば、乞われて神職となり、食のことも考える機会がふえた。
――食べ物への感謝の気持ちである。
――私ども人間は、様々な動物の命をもらって生きている‥‥。
平成22年、宮崎県南部であったか、口蹄疫(こうていえき)が流行り、病気にかかったと見られるたくさんの牛が鼻輪を棒杭にくくり付けられ、次々と注射を打たれると、ひと声の悲鳴もなく、どさりどさりと倒れていくテレビニュースを、私は正視するにしのびなかった。
今も脳裏から消えることのない、やり切れない光景であった。
老いて、食も次第に細くなっていくこの頃、「母さん、柔らかくって、うまぁーい牛肉か鶏のもも肉買ってきてよ。値段ちょっと張ってもいいじゃない」とスーパーへ出かける妻に、つい甘えて注文をつけてみたりする。
そんなこと言った後で――遠いあの日、つぶされ、肉はカレーの具となって、私ども家族の胃袋を満たせてくれた老鶏を、ふと、そおっと思い出してみることがある。
虫が起こる・・・
二三カ月前から読書虫?が起こっている。
リタイアした今、読書と言っても肩の凝らない時代小説――チャンバラ小説である。
佐伯泰英、葉室麟、稲葉稔、鳥羽亮から昭和三四十年代の山手樹一郎まで、読み出したらやめられない止まらない「カッパえびせん」CMみたいである。
朝飯が済むと、文庫本抱えてソファに座り込む。家内に用事を言いつけられても上の空。昼飯をかけ込むと早速続きのページを開く。
夕方までに700余ページを読み終えると、やっぱり老眼は疲れ果てる。肩は凝る、腰は痛い。立ち上がるとふらっと体が揺れる‥‥。
アマゾンや宅配の人々には「毎度ご苦労様」感謝に耐えない。
本が読みたい、と思うともう我慢できないのである。
いや、読書に限らない。
血液型はB型である。B型は「熱しやすいが、飽きやすい」とか。この性分は子供のころからで、祖父母から「父親そっくりだ」と笑われたのを覚えている。
いくら歳を重ねても、これは子供のままである。
やらなければならない雑用が一杯たまってきた。(読書は一服しよう)と自分に言い聞かせながら、今朝もパソコンを開けば、ついアマゾンの「本」検索にキーを合わせてしまうのである。
さて、今回の虫はいつごろ納まるやら‥‥。
妻の粗相
老妻が、自宅階段の下から4段目あたりから落ちた。2度目である。
私が、2階の部屋で探し物をしていると「お父さん、何してるの?」と階下で妻の声。面倒くさいので黙っていると、そっと上がってくる気配。その途端、ドスンと音が響いて「痛いッ」と悲鳴。
(また、やったな)ビクッとして階下を見ると、妻が転がって頭を抱えている。
「動くな」と声をかけ、あわてて階段を降りた。幸い切り傷や出血はなさそうで、大きなこぶが出来ている。
「大丈夫だ、じっとしてな」と安心させ、「頭を打っているから救急車を呼ぼうな」と納得させ、私は妻の健康保険証を出したり戸締りを確かめ、飼い犬のチワワに「留守番していてね」と言い聞かせ?てから119番。
意識はあるか、吐き気はないか等々、119番電話口の問いに答える。
その間に妻はそおっと身づくろいしたり、トイレを済ませたり。
消防署から家までは1キロほど。直線の都市計画道路だから数分もたたぬうちピーポピーポーの声が近づいてきた。
この日の救急指定病院は日赤。妻が日赤で診てもらうは初めてである。
CT検査が終わって、診察室へ呼ばれた。
医師から、特に気になる症状が出ているようには見られないので、自宅で安静に過ごすように・・・と説明されて、思わず「先生、ありがとうございました」と心から礼を述べ、ほっとした。
頭を打った患者と家族への今後の注意事項が書かれた紙や痛み止め頓服の院外処方箋をもらって、タクシーで自宅に帰ることができた。
家内の階段転落‥‥これは″粗相″である。あやまち、しそこないである。軽率だ、と叱るには私は酷であろうという気がする。
ふだん気を付けていても、誰でも起こり得る‥‥無意識の部分。どうにも制御できない、人間の弱い部分なのであろうかー。
神社で神職が神に奏上する安全祈願等の祝詞(のりと)には「手の躓(まがい)足の躓あらしめず」と祈る語句があり、つまずいたり、あやまち、過失のないようにと、日本人は古くから神に救いを求め祈ってきたのであろう。
そんなことあれこれ改めて感じさせられた出来事であった。
私と酒
時代小説を読んだ後、夜7時のテレビニュースで花より団子のお花見風景を眺め、続いてBSで時代劇「御家人斬九郎」を見終わったら、酒を飲んでみたくなった。
冷蔵庫を開けるまでもなく、我が家に冷えたビールなどあるはずもない。
料理に使う2合ビンがあったはずだが、今夜は清酒を飲む気がしない。日本酒は、酔いが長引くからである。
(そうだ、娘の出張土産の梅酒があったはずだ)
冷蔵庫の野菜室の片隅に見つけた。
コップに氷塊をいっぱい入れ、梅酒を三分の一ほど注げばオンザロックの出来上がり。いえいえ、それをさらに水で薄めてから、チビリひと口。
「うまい・・・」とりあえず、それで満足である。
「適当なつまみがなくって‥‥」と、梅酒にさえ関心のない妻が気を使ってくれたが、私にはおつまみは夕食のおかずで十分。
私は、ふだん酒を飲まない。
現役時代は、酒席に誘われれば毎度そこそこ雰囲気に応じて付き合ってきたし、若い時分には夜勤の帰り、駅前の縄のれんで熱燗を一本引っかけ、寒風に押されながら家路をたどった思い出も二三度よみがえる。
父のDNAを受け継いでいるのであろう、私は酒に弱い。
二十歳前後先輩に誘われ、自分の限度を知らずにすすめられるまま杯を重ね、あげくゲロする大失態。
二三度そんな失敗を繰り返したが、いずれも学生時代のこと、若さゆえと許されたのであろう。
二十歳代後半、私の勤めていたI新聞社の近くには屋台が出た。
宿直の夜更け、輪転機が回り始めるころ遅番の先輩整理部員に「報道部のお泊りさん、付き合えよ」と誘われて社を抜け出し、屋台で夜風に身を縮め、コップ酒をなめながら、あれこれ論じ合ったこともある。
そんな自分自身の姿に酔って、満足していたのかも知れない。
あるいは あの時代のファッションかスタイルだったのかも――。
酒の付き合いが上手で、そのつてで昇進したり、景気の良い会社へ転職出来たりした人をうらやましく、時には心寂しく眺めたこともある。
私には、とてもそんなうまい酒の付き合いはできそうもない。
それで良かったじゃないか‥‥。
とりとめもないノスタルジアにほろ酔いながら、梅酒のコップを飲み終えた。
酔った、酔った、この世の天国だぁ。
「お父さん、離婚考えたことある?」
いつものように、勤め帰りの長女が、車を運転しながら電話してきた。(ブルートゥースを使って社内ハンズフリー電話)
親子のたわいない話ばかりだが、時には今日みたいに突然ドキッとするような問いかけをされることがある。
「お父さん、お母さんとの離婚考えたことってある?」
「ない。思ってみたこともないなあ‥‥」
(何を、今さら‥・)聞くんだよ。
「じゃぁ、夫婦けんかすることは?。ないでしょ、仲がいいんだから」
「そりゃ、口げんかすることぐらいはあるさ」
「ふうーん、それで‥・。」
「それでって、言い合い始めても、じきに、詰まらないこったと思ってやめてしまう」
同じ血を分けた親兄弟だって性格、考え、生き方はそれぞれである。
夫婦はもともと他人。お互い百点満点の人間なんていない。自分だって欠点だらけ。威張れたものじゃない。そう思えば、妻に腹を立てることもあるまい。思い直して口げんかの矛を収めるのである。
結婚生活だって同じこと。
お互いが言いたい放題、やりたい放題だったらことは収まりっこない。早いうちに、取りあえずどちらかが負けた振りでもして折り合うことだ。
私ども年代の大方の道徳感覚では「結婚は一生もの」。
私など初めから染みついている。
夫婦が末永く、仲睦まじく生きて行くには相手をわかり合い、気持ちを思いやることだ。相手が一歩出たら、こちらが一歩下がってやる‥それぐらいの度量があっていい。
「人生は辛抱の連続だ」って昔から言うじゃないか。
(と言ってはみたものの、自分も若い時には「俺に逆らうのか‥‥」と空威張りしてみたことも一度や二度あったけど)。
昨今は離婚・再婚が多いと聞くが、今の世代には、それなりのモラルがあるのだろう。
私ども古い人間が、とやかく口をはさむことはなかろう。
そんことあれこれ腹の中で考えたり、しゃべっていたら、長女は
「へぇー、やっぱり人生は辛抱かあ‥‥」とつぶやいて、電話を切っていった。
同じ町内に住む知人Aさんの孫娘が、近ごろ離婚して親元へ帰ってきていると耳にした。私と同じ年頃のAさん、その心のうちはどんなだろう‥‥。
け・い・ち・つ(啓蟄)
3月6日は、啓蟄(けいちつ)――冬ごもりしていた虫たちが、土の中からはい出してくる。
大きらいなヘビ様も動き出す。
私のお仕えしていた愛称「旅の宮」(離宮さんとか大漁の宮とも)は、古くからヘビ山と呼ばれ、ある年には特に「まむし注意」の立て札を森のあちらこちらに立てて、山林内へ立ち入らないよう呼びかけたほどである。
ある朝、出勤して社務所へはいろうとしたら、外壁の板のすき間から太いヘビの首がにゅうっとのぞいて「ひえー」っと飛びのいた。こんな歓迎はごめんだ。
朝の御勤めをするので拝殿の敷物にひざまずいたら,、目の前に小さなヘビが舌をペロリ。
「助けてッー」。
廊下の片隅に(ゴミのかたまりかな?)と立ち寄れば、細いちっちゃなヘビが一人前にとぐろを巻いている。
かわいそうだ、と一瞬ためらったけど、ハエたたきを持ち出してピシャリひとたたき。
殺生してしまった、と心が痛んだ。
夏の昼下がり。ふと社務所の窓の外に目をやると、太くて長いシマヘビが、こちらの垣根から、広い境内を横切って向こう側の山の中へゆうゆうと渡って行く。
夕方、御本殿の辺りを見回っておこうと、森の中へひと足踏み出すと、ザワザワと一斉に十数匹のヘビがうごめく。高枝切りばさみで、前方の草むらを払うようにたたきながらそろり進む。
背筋が、ぞくっとする。
日の陰った参道へ足を向けると、道のど真ん中を遮るかのように太く長いのが寝そべってござる。
昼間の暑さがこたえ、砂利で体を冷やしているのだろうか、動こうとしない。
そんなヘビ山なのだが、昔から今までヘビに噛まれた話を聞いたことがない――というのが氏子たちの自慢でもある。
無数に生息する小動物や小鳥、虫たちの天国みたいな境内林・境外林も、私が宮司として奉仕した二十余年の間にすっかり様変わりし、近ごろはクワガタムシなど絶えてしまったのか全く姿なく、あのヘビ族もめっきり減って、あまり姿を見かけない。
広大なお宮の森は、昔にも増して溢れるばかりに緑生い茂るものの、そこに息づく小動物や小鳥、虫たちの生態は、人の想像を超えて変わってしまったように思われ、心に引っかかるのである。
さて、けいちつは人間にとっても「さあ、働くぞ」と意気込み始める日でもあろう。
寒いだの、だるいだのと家の中に閉じこもり、あげくインフルエンザにかかって2月いっぱいうじうじしていた私。
厚いジャンパーを脱ぎ棄てて、思い切って春の日差しの中へはい出さなくっちゃ‥‥。
👇朗読しているのは私。「まんが日本昔ばなし」の語り口をイメージしながら、原稿を読んでみたのでしたが・・。
インフルエンザにかかって、亡き母を思い出す
2月1日の早朝から下痢が始まった。咳も連発する。
風邪かな?と様子をうかがいながら過ごす。
三日目、トイレに駆け込む間が開いてきたので、町内のかかりつけ内科へ車を走らせる。
「普通の風邪みたいですね。整腸剤を5日分出しておきましょう。」やれやれ、インフルエンザでなくて良かった。
その翌日から、妻がゴホンゴホンやり出した。
「おれの風邪うつしたのだろうか?。」医者にかかるのは早い方が良い。
急いで妻を車に乗せ、内科を訪れる。
「お二人ともインフルエンザ陽性の反応が出ました。」綿棒で鼻の奥の粘膜を採取して試薬に反応させた結果を見せながら、「ご主人の方はダブルパンチですね。」二人ともタミフル5日分をもらって帰宅した。
風邪が流行っているので、外出を控え、来客もなかったのに、どうやら妻が二三日前近くの食品スーパーでインフルをもらってきたもののようだ。
ともかく1週間はなるべく家にこもって、身を慎むことにした。
インフルエンザのA型だと内科の先生は説明されたように記憶していたが、どうもB型のようで、私も妻も度々トイレに駆け込み、二三日は咳も競演さながらであった。
「やっと代休がもらえたので‥‥」長女が心配顔でやってきた。毎朝夕電話をかけてきて、容態を聞いてくれてはいたが、やはり老いた両親が気がかりになったのであろう。
せきに生姜のど飴、体を温めてと甘酒、温野菜の煮物、焼き立てのパンなどなど買い物袋一杯ぶら下げて「からだの具合、どう?」。
さらに「からだ大事に!大好きなお母さんへ」と自筆のメッセージを添えたシャボンフラワーの鉢植え(写真)をテーブルに飾って、
「これ、カゼ見舞い。お母さんへと書いてあるけど、お父さんにも共通。じゃあね‥‥。」
サッサと帰って行った。
いつもなら何か珍しいおかずを手作りし、夕食を一緒にして、ひととき愛犬チワワと戯れ、ゆっくりしていくのに、今日はマスクも外さず、お茶一杯飲まずに、ハイさよなら‥‥さすが臨床栄養学の先生らしい。”インフルエンザ桑原クワバラ””うつっては大変だと、きちっとけじめをつけるところはつけて早々に引き揚げて行ったものであろう。
「なんだかんだ言いながら、親を心配してくれているんだな。嬉しいね、母さん。」
私どもほんわか、ほのぼのとした気分をかみしめ、妻も「いい子たちに恵まれたね」つぶやいたのであった。
そんな娘との前夜のやり取りが心の奥に残っていたのだろうか、次の明け方、私は亡き母の夢を見た。
私は小学1~2年生の頃、しょっちゅうおなかを壊して学校を休んだ。
母は忙しい野良仕事から帰ると、冬場なら湯たんぽを沸かせて「おなかに抱えて温めな」とふとんの中へ押し込んでくれたり、温かいくず湯(その頃くず湯は手に入りにくく、大抵は片栗粉の代用であった)を作って飲ませてくれたりした。
おふくろに親孝行せずじまいだったなあ‥‥いまさら嘆いても何にもならないが、おなかを壊して寝込むと母親に甘えられる‥‥普段は野良仕事が忙しく子供にかまっておれない母親に対し、無意識のうちに母の愛情に飢え、母の温かみを欲しておなかを壊したのかも知れない、何てこの歳になって思いながら、いつの間にかまたひと時まどろんだ。