妹よ
隣町に住む末の妹が、久しぶりに電話してきた。
「お兄ちゃん、ちょっと教えて‥‥」
妹の話の内容は、しゅうとめが他界した後引き継いだ自宅の神祭。神棚に、毎朝新しい水、米、塩をお供えして「家内安全」をお祈りしているという。
感心させられた。
神棚の扉は、ずうっと開けたままにしているが、夜は扉を閉めるのが正しいお祀りの仕方なのか。このごろ何だか気にかかり出したので「神主だったお兄ちゃんに聞くのが一番だと思って‥‥」尋ねたのだという。
私は「神棚の扉の開け閉めについて、別に決まりはないと思う。氏神さんなど身近なお宮へ参拝して気づくように、大抵の神社はふだん本殿の扉を閉じている。
神さまのお姿を、軽々しく見ようとするものではない‥‥神を畏(おそ)れ、うやまうという気持ちから、ふだんは扉を閉めているのだろうな。」と答え、
自分の気が済むように、これでいいと思うままに、それも毎日無理なく続けられるやり方でお祀りしたらいいのじゃないの、とつけ加えた。
神は、人がいるから存在するので、お参りして自分の気持ちが安らぎ、リフレッシュできるなら、別に形にとらわれなくて良かろうと、私は思っている。(神職は、祭祀を厳修しなければならないが・・)。
さて、私は、六つ下に弟、さらに六つ離れて妹、その三つ下に末の妹という4人兄弟である。上の妹が小学2年生の時、下の妹が就学前に父親が他界したので、兄の私を父親のように頼って育った。電話してきた妹は、小学6年を卒業する春まで、毎晩私と一緒に風呂にはいっていた。
上の妹の方は「お兄ちゃんは甘いものが好きだから‥」と折に触れ和菓子を買って訪ねて来てくれる。
二人の妹は、既に子供たちも巣立って、それぞれ今は伴侶と穏やかに暮らしているというのに、いまだに「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕ってくれている。ありがたいことだ。
私も、妹たちが大好きだ。愛おしく思い、そっと見守っているつもりだ。実家を継いでくれている弟夫婦とも、私どもしょっちゅう行き来して、円満である。
兄弟は、いいものである。
ひとのうわさ話。
「小人(しょうじん)閑居して不善をなす 」という成句があるが、私みたいな老人が暇を持て余していると、ふと、何でもない過ぎし日の出来事を思い出すものである。
はるかムカシ(昔)、I新聞に転職して記者駆け出しのころの話である。
仕事は、まず朝の「サツ回り」から。市政記者クラブの各社記者と一緒に所轄警察署→検察庁→裁判所等を回って、それぞれの部局の責任者と雑談をしながら記事を拾う。
取材される側も、各社ばらばらに来られるより、数社まとめて相手する方が効率的なのであろう。
取材する方も、される側も、ちょっと見たところ朝の慣習‥挨拶みたいなものである。しかし、抜け目のないベテラン記者は、雑談の中からヒントをつかんで、後刻、単独で刑事課長を訪ねて話しかけ、時には特ダネに結びつけることだってある。
朝のちょいとした儀礼みたいなサツ回り‥‥なんて気を抜いていたら、とんでもない。うかうかしておれない。新人記者はあちこちで頭を打ち、べそをかき、鍛えられて行くのである。
そんなある日。私は、めずらしく宵のうちに仕事を終え、私鉄電車に揺られて1時間余り。自宅の最寄り駅で降りると、自転車預かり所に立ち寄って自分の自転車を受け取り、15分ほどペタルを踏めば自宅に着く、というのがいつもの道のり。
改札を出た所で「突然呼び止めて、ごめんなさい」と後ろから声をかけられた。振り返ると、30代と思われる実直そうな男性である。
「あなた、記者さんですね」
「‥はあ」
「私もこの私鉄で通勤しているので、時々姿をお見掛けします」
「はあ‥」
たまたま今日は同じ電車に乗り合わせ、時刻も早いので、途中下車して私の後を追ってきたようである。
「ちょっと話を聞いていただきたいのですが・・」と駅前の喫茶店へ誘われた。
話を聞いてみると、この人は、どうやら記者たちが毎朝回っているある部局の職員で
「記者さん方は、いつも課長と何を話していらっしゃるのですか」と繰り返し聞いてくるのである。
「何の話って‥‥。とりとめのない世間話ばかりですよ」と答えると
「私のことは話に出なかったでしょうか」と言われ、
「はあ?‥。‥個人のうわさ話なんて出ませんよ」と答えるしかない。
「私のこと、何か話しているのじゃないかと、いつも聞き耳を立てていたのです」と。
私は腹の中でびっくり。そんな見方をしている人もいるんだ‥‥。この人が、あの部署にいたなんて、名も顔も知らないし、全く関心もない。あきれたものだが、
「気にすることは何もありませんよ」と、ここはなだめ慰めて、帰ってもらった。
後日、この人が勤務するという部署を取材で回ることがあっても、あえてこの人の顔を見ることはしなかった。
日ごろ、この話と似たような、気まずい雰囲気を経験された方もいらっしゃるのでは、と思う。
こんなシーンも。
たまたま職場の同僚が二三人あるいは数人、立ち話している所へ出くわした途端、いままでの話が途切れ、思いなしか顔を見合わせているみたい‥‥「面白い話でもしていたの?」何て笑って話仲間に加わってみよう振りをするものの、腹の底では(俺の悪口言ってたんじゃなかろうか)と疑心暗鬼を生じるものである。
我が家でも。
近ごろも相変わらず、家内の知り合いが、入れ代わり立ち代わり訪ねてきては家内とひとしきり雑談をして帰って行く 。狭い我が家、聞くともなく話し声が漏れてくる。
「あそこの化粧品屋、感じが悪いのよ。化粧水を買って店を出ようとしたら、背後で店の奥さんと店員の笑い声がした。きっと、安物買いの私をあざ笑っていたのに違いない。あの店には、もう行かない」と家内に話して、うっぷんを晴らしている様子であった。
お店の人たちはほかの話題で笑い合っていたのかも知れないが、お客の方は自分が陰口を言われたと受け取って気を悪くするものである。
私だって、どこかのお店で買い物をして店を出るとき、もし背後で複数の笑い声を聞いたら(俺を笑ったのか?)と気を悪くするであろう。
店側のうかつでは済まされない。お客の姿が見えなくなるまで店主や従業員は私語を慎む‥‥これは接客の基本であろう。
気の合った者同士が談笑したり、他人のうわさ話をするのは、時にはちょっとした息抜きにもなるようで、つい仲間に割り込んで調子を合わせてしまい、後悔することがある。
うわさをすれば何とやら‥‥というが、他人様のうわさ話をして後悔するより、その前に、うわさ話するのを慎んでおいた方が無難のようである。
イメージする……彼の女性(ひと)は
母の妹が他界し、その葬儀に参列するため郷里へ帰った。
久しぶりに親戚や幼なじみの顔と出会い、あいさつを交わした。とっさに名前を思い出せず「森の孝夫(仮名)やがな‥」と言われ「あっ、ごめん。見間違ったわ」と笑ってごまかしたものの、ばつが悪かった。
孝夫ちゃんは子供時分は母親似だったのに、五十を超えた今はすっかり叔父さん似のおやじ顔になって‥。
そんな場面が二度あって、せっかく気安く挨拶してもらったのに、きまり悪い思いをした。
ちょっと古い話だが、気の合う高校同級生四、五人と一杯飲んだ席で、酔いの回ったk君が「お前の町のS美容院の娘さん、魅力あるね。俺の大好きな女優若村麻由美の若い時に似ている。すっかり惚れちゃった」と私につぶやいた。
話を聞くと、彼の奥さんを車でS美容院へ送ってきた時にたまたたま店の娘を見かけてすっかりのぼせ上ったもののようである。「いい歳したおやじが、何というこっちゃ‥」と思ったが「結構、結構、いいじゃないか」とはやし立ててやった。
後日、S美容院の娘さんの顔を見かけることがあったが(どこが若村麻由美に似ているんだろうか)と私は首をかしげたものであった。
自分が好きな女性を女優のだれだれに似ているとか、美化したいもののようである。逆に好きな女優さんやテレビタレントの顔を自分の彼女に目元がそっくりだ、横顔も似ている‥と、いよいよ想像は限りない。
やがていつか夢冷めて、イメージと現実(虚像と実像かな‥)の落差に、自分ながら落胆するもののようである。
幾つになっても、男ってやつわ……。
人間のすることに・・・
新聞の社会面を開いたら「裁判官 うっかり。実名で呼びかけ」の見出しが目に留まった。
性犯罪の被害者が誰であるかわからないように、被告を匿名で審理したH地裁の公判で、裁判官自ら被告を名字に「さん」付けで呼んでしまったという。
裁判官だって人間、チョンボ(失敗。ミス)することあるわなぁ~。きっと腹の底でべそをかいていたであろう裁判官の表情を想像して、何だか思わず親しみを感じた。
あれは昭和40年代初めであったか、古い話だが・・・。
私の勤める地方紙I新聞が、婦女暴行事件の判決公判記事で、加害者・被害者両方の実名を紙面に出してしまったことがある。
それは社会面の片隅に、小さな見出しで「女性の敵に有罪判決」。ベタ記事であったが、社内は朝から大騒ぎ。被害者側から「この責任、どう取ってくれるんだ」怒りは当然。幹部らは頭を抱えて「えらいこっちゃ」と大あわて。編集局長らが被害者宅へあやまりに飛んで行った。
(その結末がどうなったのか、私は聞いていない。)
編集局内で原因究明が始まった。
その頃、会社は労働争議が長引き、社員の士気は衰え、多くが浮足立っているように私は感じていた。
記者が書いた原稿は、通常まず報道デスク(部長または次長)が入念に目を通してチェックし、リライトの後整理部デスクの手へ。整理部デスクから社会面とか地方面とかの担当に渡す。担当部員は見出しを付けて紙面に割り振り、原稿を印刷局へ下ろす。
当時の印刷局は、まず文選工が原稿に沿って活字を一本一本拾い 、組み上げた活字版をゲラ(活字版を収める箱)に入れて試し刷りしたもの(ゲラ刷り)を校閲部へ上げる。
校閲が赤筆を入れた初校は再び活版部へ。誤字を拾いなおし、校閲が二度目の赤筆。大刷りが出来ると、校閲・整理・報道各部のデスクが最終チェックし、輪転機の部署へ送られる。
ところが問題の原稿は、幾つもの目をすり抜けて、輪転機に乗ってしまったのである。
裁判所の取材は、市政記者クラブの担当であったが、キャップは当日労組の執行委員会に参加しており、見習い期間中の新人が他社の記者にくっついて裁判所を取材し、たまたま当日の判決を記事にした。裁判所では報道用として、被害者の住所・名前など伏せて、判決のあらましを発表してくれていたが、当の新人記者は、各社と裁判所広報との雑談の陰で、取り調べ調書をちゃっかりのぞき見し被害者名までメモして、”勇躍”記事にしたもののようだ。
わずか十数行の原稿だが、新人さんは長い時間かけて書き上げ、編集局が一番忙しい夕方のどさくさに紛れて報道デスクの席へ提出したのである。
I新聞始まって以来の”大誤報”いや大チョンボは、ここから始まったのである。
その時刻、報道部・整理部両デスクは役員室に呼び出され、労組がストライキにはいった場合の善後策について意見を求められ、しばらく席を離れていた。
紙面づくりを急ぐ整理部員はしびれを切らし、報道デスクをのぞいて、積まれてあった原稿の束を確認もせず引っつかみ、勝手に自分の判断で社会面に割り振って紙面を埋めたのである。信じられない行為である。
べた記事とはいえ、爆弾を抱かえたみたいな原稿は組織のすき間をスルーしていったのであった。
個人でも組織でも、人のすることに「完全無欠」はないと戒められている。そんなところから「人事を尽くして天命を待つ」と続く。
(I新聞の出来事は論外で、人事を尽くした結果とは言えない。組織のゆるみは怖い。)
人生、いろいろ経験するものである。
しち・ご・さん
日曜の12日、19日とその前後の数日「七五三」の手伝いで氏神さまの社務所へ出かけた。
祈祷や行事が重なり、スケジュール一杯になると、来客につい不行き届きな応対になってしまう場合も出てこよう。
そこで、退任して4年余もたつ私に応援のお呼びがかかる。
さて、この頃の七五三参りの様子はどうだろうか?――と、ちょっと興味を持ちながら、白衣・紫の袴(はかま)に着替えて受付に立つ。
その日午前10時の祈祷予約は3組。2組は5分前までには控室にはいられたが、あと1組は15分過ぎてもお見えになる気配がない。
「時間通り来られたご家族を、これ以上お待たせしてはいけない」と宮司は2組を案内して拝殿へ向かった。
間もなく太鼓の音が聞こえ、お祓い・祝詞奏上へと式は進むはずだ。
その辺りになって「10時予約の〇〇です。」5歳と3歳の男の子を連れ立った親子が玄関に着かれた。
「お待ちしていたのですが・・・今ご祈祷中なので、あと20分ほどお待ち願います。」と控室へ案内する。
ものの5分もたたないうちに控室でドタバタ。兄弟がソファでジャンプしたり部屋の中を走り回っている。父親は煙草をふかし、母親はスマホをいじってそ知らぬふり。
「もうちょっと待ってね。静かに我慢できた子には、神さまからごほうびがいただけるからね。」なだめて、頭を撫でてやる・・・。
先の2組が祈祷終えて御殿を下がってきた。待ちくたびれていた親子はすぐ宮司に導かれて拝殿へ、ばたばた足音立てながらはいって行く。
「やれやれ」ホッとする間もなく、もう次の11時予約の親子が訪れるはずだ。
お昼、12時半過ぎ、「今のうちに腹ごしらえしておこう。」と宮司がカップラーメンに湯を注ぐ。
ふと窓の外に目をやると、参道には次の午後1時祈祷予約済みの親子の姿が・・・。
もう二昔も前になろうか、七五三当日の11月15日は、休日だろうが平日だろうが朝の8時を過ぎるころから、身なりを整えた親子連れが続々と鳥居をくぐり、祈祷開始時刻には控室も拝殿も満員になるほどであった。
年々様変わりして、15日が平日だと拝殿はがらがら。親が勤めを休めないから、というのが大方の理由。師走にはいってから七五三参りをされる親子もある。
祈祷の予約時刻を過ぎて到着しても気にしない。祈祷中にふざけて騒ぎ出しても、子供を叱らない親・・・
「何でも自分らの思い通りに・・・」「他の人の気持ちなど全く気にしない」果ては、わがままが通らないと相手を誹謗する・・・
私どもの年代から見れば「いやはや・・・」と嘆きたいところ。
祭祀(祭事)に厳しい私の後任宮司も「七五三参りの本当の意味を忘れて、形だけ。マナーどころか年々”わがまま”な参拝者がふえていくようですね。」と私に漏らす。
そして、きびすを返すと、祈祷を終えて今下がってきたばかりの拝殿へ「お待たせしてごめんね」愛想よく小さなお客さまたちを案内して行くのである。
人の世の移り変わりを嘆いてみても、大方それは参拝者を受け入れる神社側のぼやき――泣き言であろう。努力不足だと反省したい。スタッフは宮司一人だけという小さなお宮なりに「どうしたらお客に満足して帰ってもらえるだろうか」考え工夫しなければならない。この仕事は、これから益々大変になる。
前宮司である私の在任中の努力不足も否めない。
参拝したり祈祷を受ける人たちからすれば、神社が受付時間を公表しているのだから、平日だろうと何時だろうと、自分たちの都合のよい時にお参りしたら良いのである。
そんなことあれこれ、改めて考えさせられた”しち・ご・さん”であった。
帰る姿が懐かしい……青春の並木道。
日没まで間があった。
知人を訪ねての帰り、急に思い立って、すこし回り道をして、昔の職場辺りをのぞいてみたくなった。
その宝物館の駐車場に車を止め、管理事務所の近くを歩いてみる。
高い植木に囲まれ、事務所は五十数年前の佇まいそのままに思えた。
事務所から国道へ出るまでは、50m余のなだらかな勾配の砂利道。
宝物館も事務所も小高い丘の上に立っているので、砂利道の途中までは切通し。国道へ抜ける辺りの両側は桜並木だが、事務所から200mほどは土手が左右から迫り、晩秋のこの時期、深い緑に包まれた道はまことに静寂であった。
宝物殿の閉館は、冬場平日は午後4時。パートらしい中年女性が2人、事務所を出てこの道を帰る気配。
なぜか思わず私は「並木の雨」を口ずさんでいた。
どこの人やら、傘さして、帰る姿の懐かしや……
今日雨は降っていないけど、あの頃がよみがえる。
勤め時間から解放された上司や先輩、事務のお姉さん。ある日はその後姿を見送り、時には自分の帰り道でもないのに、その辺りまで肩を並べてしゃべり合いながら歩いて行ったこともあった。
学校を出て就職した先が、この宝物館とは国道を挟んで向こう側に立つ、同じ宗教法人の運営する文庫(図書館)であった。
勤めだして日を重ねるにつれ、文庫の内情がわかってきた。
法人本部から位置的に離れた言わば”へき地”。文庫の主任も、初老の女子事務員もまるで”島流し”になったみたい、何となく表情暗く、覇気が感じられない。
私の与えられた仕事は、未整理の古文書や新刊図書の分類整理、図書閲覧カード書きや台帳登録。
もう一つは、閲覧室を訪れた大学の先生から一般人、学生生徒まで、その方々の出された閲覧申し込みカードを握っては本を探して書庫へ出たり入ったり。事務に集中する暇もない忙しい日もあった。
文庫主任は謹厳実直、冗談も言わず、笑った顔などお目にかかることもなかった。細かいことにはよく気がつき、それも自分でやってのける。片や事務のおばちゃんは「古文書のこの字が読めないの。君は大学出てるんでしょ……」と時々あからさまに私をいびる。後日知ったのだが、私の初任給に比べ、10年以上も長く勤めているおばちゃんの月給の方が低かったとか、その腹いせもあったのだろうか。
日ごと朝の出勤が億劫になってきた。
初心もどこへやら。自分が勉強時間の工夫・努力もせず、好きな研究ができない――「お膳立てしてくれない」のを他人のせいにして、楽な道、遊ぶことを覚えた。
遊びといっても、その頃は映画館に逃避することぐらい。土日はもちろん、平日でも勤務を終えると、足は自宅とは反対の繁華街へ、封切館へと急いだ。
ある日の昼休み。隣の宝物館へふらり立ち寄ってみたら、歓迎された。
映画ファンの管理事務所主事さんとは意気投合、五つほど年上の女性事務員にも好かれた。先輩とは、芝生に寝転んで人生を語り合う日も。
昼休みを待ちかねて、度々息抜きに宝物館事務所へ出かけるようになった。主事が「君が気兼ねなく管理事務所へ出入りできるよう兼務辞令を申請してやる。」と好意を示され、間もなく文庫と宝物館兼務の辞令が出た。これがまた文庫の人たちからねたまれた。
文庫勤務も3年目。その頃までに全くやる気を失い、もはや限度だと腹を決めた。
縁あって新聞社に転職できた。
思えば、二十代半ば、アフターファイブにはそれなりに楽しみや喜び、若さゆえの行き過ぎもあり、もどかしさ、悲しみもあれこれ経験した。人生は経験の積み重ねである。
その後の人生に、そんなにムダな3年間だったとは、今も悔いていない。
ともあれ、青春のページを1枚めくり終えた、と思ったものであった。
☆「並木の雨」 (高橋掬太郎作詞。池田不二男作曲)昭和9年ミスコロムビアの歌でレコード化 されたと何かで読んだ。元の歌も、戦後のリバイバルも聞いたことないけど、小さいころ母親がお針仕事をしながら口ずさんでいたので、私の耳にはなじんでいる。先ごろ「ユーチューブ」でアルフレッドハウゼ楽団のこの曲の演奏を聴き、本当に好きな一曲になった。
ふる里は、今・・・
秋のお彼岸。妻と連れ立って私の生まれ在所へ墓参に出かけた。
車で30分ほど。
村はずれの、曲がりくねった細い坂道を上り詰めた辺りに墓はある。
花と水を供えて父母や先祖の霊を慰め、当家一統の無事を祈った。
実家に寄り、弟夫婦と歓談した。
私の同級生や幼なじみの消息を聞いた。
セイキ君は元気だが、ケン君やナッちゃんは早々と他界し、看護師になっていたアサヒちゃんもつい先ごろあちらへ逝ってしまったという。
同じ村内に嫁いだフナちゃんや隣町に住むキミちゃんは、弟夫婦に出会うたび「兄さんは、元気でしょうか」と私の様子を聞いてくれるという。
嬉しいことだ。
私も急にあの子たちの顔が見たい思いに駆られる。
実家の目の前にどっかり横たわる山並みの雄姿は昔とちっとも変わらないけど、その山すそまで広がる田んぼのあぜ道や土手を、この時期真っ赤に埋め尽くした彼岸花は一本も見られない。
土手道などすっかり舗装されてしまったからだ。
小学校から帰ると、刀に見立てた竹切れを振りかざして、彼岸花を片っ端からなぎ倒してたわむれた。あの頃の、ふる里の光景ははるか思い出のかなたである。
「黄昏人(たそがれびと)の郷愁だろうか」何てつぶやきながら在所を後にした。
帰宅して駐車場に車を止め、ふと目をやるとフェンス沿いに、十数本の彼岸花が、思いなしか何だかしょぼくれた花を西日にさらしていた。
「来年は、家族をいっぱい増やして賑やかに咲き乱れてや」とその彼岸花に声をかけてやった。