ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)。「ワンちゃん」は、昔、駆出し記者のころ先輩がつけてくれた。このあだ名、今では遥か青春時代のよすがでしょうか。

今日は見知らぬ顔ばかり・・

 ふだん、私個人のお金の出し入れは、A銀行B支店のATMで済ませているが、少し尋ねたいことがあったので、一年ぶりくらいだろうか窓口に立った。

 

 順番を待つ間、カウンター内で立ち働く行員さん方のお顔を見渡したが、奥の支店長席で書類を見る男性も、窓口の女性も、どなたも知らない人ばかりであった。

 

 数年前までなら、窓口を訪ねれば、顔見知りの若い女子行員が「あら、宮司さん」と、にこにこ気安く話しかけてくれたし、時には支店長がわざわざ席を立ってきて一言二言愛想してくれることもあった。

 

 私が宮司を務めていた神社の祈祷料や賽銭等の預け入れなど、日常のお金の出し入れは、ほとんどB支店にお願いしていた。

 また、毎年仕事始めには、支店長始め主な行員の方々、お揃いで企業繁栄・社員安全の祈祷を受けにおいでになっていた。

 

 そんな関係で、在職中は支店の方々ほとんどお顔なじみであった。銀行員さんも転勤が多いようだ。リタイアして4年もたってしまった私はすっかり浦島太郎である。

 〽「どこへ消えたか 女の子さえ、今日は見知らぬ顔ばかり・・」 むかし、鶴田浩二が歌っていた「名もない男のブルース」のフレーズを思い出しながら銀行を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

沈丁花の花の香り……

 2平米ばかりの裏庭に、妻が移植した沈丁花が花をつけた。
 背丈は50センチほどだが、数本の枝に四五十個も白い花を咲かせ、辺りに甘く上品な香りを漂わせている。
 チワワ散歩の行き帰り、鼻を近づけては、やや強い香気にひとり酔っている。
 
 沈丁花の香りが好きだ。
 
 高校時代、彼女の家を訪ねてお茶をいただいている時、中庭からそこはかとなく甘い香りが漂ってきて、たちまちその香りが好きになった。香りの主が沈丁花の花だと知ったのは、恥ずかしながら何年か後のことだった。

 沈丁花の香りは、昭和30年代松本清張推理小説「黄色い風土」に「沈丁花の匂いをまとった不思議な美女」が出没して興味をそそられたし、さらにテレビドラマ化され冨士真奈美扮する沈丁花の女を見て、ますます心に残る香りとなった。

 

『毎日、出来心』……

 中日新聞のコラム欄で、女流画家篠田桃江さん(103歳)の「残り人生をスケジュールに合わせて動くなんて、とんでもない」「私は、毎日、出来心」という趣旨の言葉が紹介されているのが、目に留まった。
 
 私は、思わずニヤリとした。何とシンプルで、歳を重ねた人の、味のある、人生を達観したかのひと言であろう。

 
 神社を退職して3年が過ぎてしまった。あれを片付けておきたい、これもしたい……と思いながら、結局は何にもしないで無為に明け暮れを重ねるばかり。

 
 「毎日、出来心」―今日からは、この気持ちのままに暮らしてみよう。

さようなら、ターやん。  その3

 報道部員は年中、肩にカメラをぶら下げ行動していた。写真が本職のカメラマンも、時には記事を書いた。地方紙の記者は何でも屋であらねばならない。

 あのころ、記者不在の名張支局のカバーは伊賀上野支局が受け持っていたように憶えているが、実状は何とも心もとない地域であった。

 そのため、取材記者でないターやんが、まるで日課のように帰宅の道すがら名張警察署をのぞいては、自分の五感で事件・事故の気配を確かめていた。
 
 それが今回、他社を出し抜いての大スクープとなって実を結んだのである。KY編集局長は「記者はそうあらねばならぬ。おまはんら、ターやんを見習え〜」と田中さんを褒め称えながら、報道部員を励ましたものであった。

 重役からパートのおばさんまで、社内では「ターやん、ターやん」と気安く、親しみ込めて呼ばれていた田中芳朗さん。普段の人柄は、実に円やかであった。

 
 
 私はことし5月末日、23年間お仕えした神社の宮司を辞任し、やっと肩の荷を降ろすことができた。
 
 これで、長いこと顔を見ていないターやんともゆっくり会える、と先輩との再会を楽しみにしていた矢先の訃報である。
 別れは人の世の常とはいえ、何とも寂しい。

 さよなら、ターやん。また、次の世で……。

 
 

さようなら、ターやん。  その2

 翌日から、報道各社の取材競争が始まった。
 
 当時、伊勢新聞の県警本部記者クラブ詰めはNキャップと私の2人。私は県政記者クラブのカバーもさせられていた。
 
 ベテラン記者のNキャップが、事件の現地へ向かい、私は鑑識課や県の衛生研究所などの取材を受け持った。
 
 そのころの伊勢新聞社の取材体制は、まことに弱体であった。取材記者が少ない。自動車など機動力がない。通信機材も他社に劣る、。郷土紙を標榜しながら、実のところ通信社からの配信に頼るところが大きかったように思う。

 
 事件は、容赦なく大きく揺れ動く……。


 
 普段、ターやんと私は、帰宅する近鉄電車の方向が途中まで同じなので、駅前の喫茶店で待ち時間をつぶすことが多かった。

 あのころは、二人ともタバコをよく吸った。ウエートレスが何度も灰皿をかえにきてくれた。
 取材の話、社の話などお互いよくしゃべり合った。若かった。

 だから、電車にはいつも駆け込み乗車。

 名張駅で降りたターやんは、その足でたいてい毎日名張警察署をのぞいてから帰宅するのを習慣みたいにしていた。昨夜もそうだった。(当時の名張支局には、記者が配置されていなかった)。
 
 日ごろのその心がけが幸いして、今回の事件では、いち早く現場へ急行し、生々しい写真をスクープすることができたのである。

 ターやんは、太っている割にはこまめによく動いた。各社のカメラマンとの小競り合いは毎度、時には怒鳴り合いもして平気な顔をしていた。
 

 それだけ写真の仕事を愛し、報道カメラマンの使命に誇りを持ってあの時代働いていたのだと、私は今も田中芳朗さんを尊敬している。

 

さようなら、ターやん。

 ターやんが、亡くなった。

 新聞の訃報欄で見て、びっくり。

 二度三度、読み返した。

 「ターやん」こと田中芳朗さんは元伊勢新聞写真部員(カメラマン)。

 年齢は私より一つ上、入社は2年先輩である。


 なぜか気が合って「おい、ワンちゃん、行こうや」と私を誘い、しょっちゅう二人つるんで(連れ立って)取材に出かけた。

 私が車の運転と記事、ターやんは太った体に重いカメラバッグをぶら下げ、年中タオルでごしごし汗をぬぐっていた。

 ターやんはとても気前よく、毎日のようにコーヒーを飲みに行ったけど、伝票はいつも彼が引っつかんで私には払わせなかった。


 私は、報道部会などそのときの雰囲気に応じて「田中さん」と呼んだが、ふだんは先輩に失礼だとは思いながらも「ターやん」と気安く呼ばせてもらっていた。


 あの事件が起きたのは、52年前の昭和36年3月28日夜、その日私は本社の夜勤で、報道部の受話器を取ったら、現地一報、ターやんのやや上ずった声が飛び込んできた。

 「集団食中毒みたいやけど、ようわからん……。公民館の現場は、えらい(ひどい)状況やで!。写真は撮ったけど…(出稿は)あしたでええやろう」と、叫びながらも、この時点ではまだそれほどあわててはいない様子だった……そんなように記憶している。


 そのころ県警本部記者クラブ詰めだった私は、県警本部の当直に電話で確認したけど、まだ詳細は「わからん」と、無愛想な返事であった。


 原稿の締め切り時刻が迫る。


 整理部の夜勤デスク(私の隣町に今も健在)の判断と指示で、ターやんの現場からの一報だけを、私が十数行の記事にまとめ、まもなく輪転機は回り始めた。


 これが「名張毒ぶどう酒事件」になろうとは〜…私も当夜は深刻に考えず、最終の近鉄電車に駆け込んで帰宅した。