ノスタルジー

「ワンちゃん宮司の旅の宮余話」(改題)

「終活年賀状」は、書かない‥‥

 「終活年賀状」の文例が、ネット上で見られるようである。

 

 二三年前から、私の手元にも何通かの終活年賀状が届くようになった。それに、ことしも既に十二三通の喪中はがきも来ている。

 

 それやこれやも加えて宛名名簿を整理してみたら、私も妻もそれぞれ100枚を切ってしまった。

 

 何だか身の置き所が狭く縮まったみたいで、心寂しい気がする。

 

 「筆まめ」で宛名もデザイン面も作成し、印刷も終わった。

 

 これから1枚づつ一筆書き入れる心づもりでいる。

 

 日ごろご無沙汰の先輩、友人、知人の顔を思い浮かべながら、ひと言書き添えて、懐かしんでみたい。

 

 

 5年前に現役を退いたとき、(これから毎日1枚ずつ、友人にはがきで便りを書こう)と思いつき、初め二三通は、何となく心弾むひと時を持つことができた――とうなづいたものだったが、あっけなく棒を折らせてしまった。

 

 自分の気持ちとしては、年賀状はその埋め合わせみたいなものでもある。

 

 

 今のところ、終活年賀状を書く気はない。

 

あとひと口、もうひと口

 所用で燐市へ40分ほど車を走らせたが、相手の急な都合で2時間近く待たなければならなくなった。

 

 午後1時を過ぎていたので、どこかで腹ごしらえをすることに。

 

 久しぶりに、みそラーメンと餃子でも食するか――と、カーナビで最寄りの中華料理店を検索するが、あいにく定休日の店が多く、やっと住宅街に夫婦で営業する店が開いていたので立ち寄ってみた。

 

 「野菜たっぷりのみそラーメン」とお品書きにあったので、それと焼き餃子を注文した。

 

 ラーメン・餃子は、新聞社時代の二十歳半ばから、手軽な昼食として、つい度々、出前してもらったものである。

 

 運ばれてきたキャベツなど野菜を山に盛り上げたみそラーメンを見て、思わず「うへぇ、これはこれは‥‥」と驚くと、若い奥さんは「餃子は食べ切れなかったらパックでお持ち帰りください」と親切に声をかけてくれた。

 

 餃子一つを口に入れたが、ジューシーで「うまい!」。しかし、どう見ても、具一杯詰まった餃子一皿6個は食べ切れそうもない。

 

 最近とみに食が細くなってきているからである。

 

 せっかく作ってもらったラーメン。食べ残すのはもったいないし、失礼でもある。

 

 ともかくラーメンをすすり込む。キャベツはばりばりかみ砕く。いい味加減のスープだったが、これは思い切って飲み残す。

 

 「あと、ひと口」「あと、ひと口」と頑張って、ラーメンはどうやらほぼ完食した。

 

 ころ合いを見て奥さんが「残された餃子はパックへお入れしましょう」と、余分にタレの小瓶までつけ加えて、気軽に包んでくれた。

 

 若いご夫婦が営む、気配りのうれしい、アットホームな小さな中華料理店であった。

 

 

 それにしても、食べられなくなってしまったものである。

 

 若いころには餃子をもう一皿プラスして食べたいと思ったほどだったのに――。

 

 近ごろでは、外食の機会もめっきり減った。一人前が食べ切れないから、つい出かけるのもおっくうになるのである。

 

 かと言って、食に関心をなくしたのではない。食べたことのない、美味しそうな写真を見ると「旨いものを、ちょっとだけ味わってみたい」と興味津々。

 

 新聞の折り込みチラシには目を通すし、インターネットのブログでも腕自慢の料理記事は一読する。

 

 

 ――気に入った料理は、食べ終わってから「もうひと口、余分に食べたかったになあ~」と、ちょっと物足りなさを感じた、若いあの頃の食欲を、今は懐かしくさえ思うのである。

 

生かされてます‥‥

 月半ばから、何かとせからしい――老体には、気疲れを覚える日が続いた。

 

 総合病院で私の抜歯。次いで妻が健康診査で血圧が高すぎる、心臓病が懸念される、と内科からの紹介でハートセンターへ急ぎ回され、心臓エコーやCT検査など丸一日不安な時間を過ごしたのである。

 

 

 まず抜歯。左下奥歯の具合が悪く、数年も前から最寄りの歯科へかかっているが、良くなるどころか益々虫食いが進んでいる感じだ。

 朝起きると、口中に苦い液がしみ出している。

 

 

 私は心臓を患い、血液の凝固を防ぐバイアスピリン錠を服用しているので、歯科医は抜歯をためらってようである。

 

 そうこうしているうちに、今度は左上奥歯2本がぐらぐらになって、食べ物が満足に噛めない状態に陥った。

 

 歯科の先生も、やっと「日赤か市民病院で抜歯して来てもらおうか」と踏ん切りをつけられたか、赤十字病院に予約を入れてくださった。

 

 指定されたのは翌日朝一番。先生に書いてもらった紹介状を持って、翌朝車を走らせた。

 

 赤十字病院の歯科口腔外科。問診の後、放射線科でレントゲン写真を撮った。

 

 「一番早いオペは、明日でも出来るけど‥‥」とドクター。

 「はい、結構です。明日お願いします、先生」

 「じゃ、明日午後1時、外来へお越しください」

 

 翌日午後1時前に歯科口腔外科の受付を通ると、すぐ主治医に呼ばれた。

 「念のため血液検査をします。梅毒やHIVの感染を予防するための検査で、患者本人の同意を必要とします」

 すぐ採血に回る。

 

 先生に案内されて3階のオペ室へ。

 手術着に着かえさせられ、手術台へ上る。

 本格的なオペの気配。緊張する。

 

「 30分ぐらいで終わります。力を抜いて、気を楽に‥‥」と先生。

 強いライトを当てられる前に、そっと周りに目をやると医師2人、看護師3人の姿を認めた。

 

 手順や麻酔薬の使用量などいちいち声に出して確認しながら、抜歯は予定通り無事終わった。

 

 

 私の2本の奥歯を抜くために、多くの医師、看護師さんや技師の方の手を煩わせたのである。

 

 心から感謝せずにはおれない、ありがたい気持ちである。

 

 今の世の仕組みでは普通のことかも知れないが――。

 

 

 「人は、一人では生きて行けない。みんなに生かされているのだ」今さらながら、人の世に思うのであった。

 

 

あの人は、今どこに・・・

 「お父さん、たまには3人でお昼 外で食べない?」娘が電話して来た。

 「いいなあ。――母さんも一緒に行くだろう」と妻に同意を求める。

 「じゃあ、迎えに行く」と娘。

 

 娘は、M市の自宅マンションから車で40分余。私と妻を乗せる、ととんぼ返り。M市内のレストランに案内してくれた。

 有名な老舗料亭に新しく併設された、くつろいだ雰囲気の中で和食が楽しめるお店であった――。

 

 この横町から五六十メートル出ると、その辺りは古くからの歓楽街である。

 遊郭が賑わっていた時代は知らないが、今もバーやスナックが軒を連ね、赤い灯青い灯の夜の町には変わりない。

 

 

 

 I新聞社へ通勤していたころ、同じ方向へ帰る同僚と私鉄電車をこのM市で途中下車し、屋台やスナックへ立ち寄ることもあった。

 

 ある夜、I新聞の編集局内に支局を置いているK通信社の支局長に誘われ、M市のスナックへお供した。

 とある店にはいった途端「――あらぁ。高校卒業以来初めてお目にかかります‥‥」

 愛想よく出迎えられた。

 「――‥‥」

 とっさに口がきけなかった。よく見ると、T子さんである。

 「ここ私の叔母の店。最近手伝ってるの」

 「そう‥‥」私は微笑み返すのがやっと。

 

 支局長はきょとんとして、すぐ後ニヤッとほおを緩めたようである。

 

 私の方はすっかり固くなってしまった。誘ってくれた目上の人を差し置いて、T子さんへ親しそうに話しかける気にはなれず、その夜は気まずい思いを胸に、次の店へと支局長に従った。

 その後、T子さんの店を再び訪れることはなかった。

 

 

 T子さんは、同じ高校の1年下。丸顔で色はやや黒い方だが、小柄で、誰にも愛嬌を振りまいているようであった。

 

 私は3年生の初め生徒会長に選ばれていたので、校内では顔を知られていたようで、T子さんも廊下ですれ違った時など、ニコッとはにかむように微笑んでくれたのを覚えていた。

 

 

 夏休みにはいる頃、T子さんから自宅にラブレターが届いた。

 驚いた。

 白い封書の内容は、先輩を尊敬している。つき合ってほしい――といったことばが連なっていた。

 

 

 そのころ私は、生まれて初めて、同級生のK子に心を燃やしながらも口には出せず、ただの勉強友だち、話友だちとしてつき合い始めていた。K子とT子さんとは同じテニスクラブだから顔見知り。

 

 

 私はT子さんの気持ちだけはありがたくいただくことにし、手紙の返事は書かなかった。

 その後、校内で何度かT子さんと行き合うことがあったが、お互い「やあ」と微笑みかわす程度で、卒業してしまった。

 

 

 そして数年後のあの夜、支局長のお供で、たまたまのぞいたスナックでT子さんに出会ったのであった――。

 

 

 私は、おやじに似て酒は弱く、職場の忘年会や同僚とのつき合いで飲んでも、じきに苦しく眠くなる方で、ふだん晩酌などほとんどしない。

 

 

 新聞社をやめ、養父の商売を継いで十数年たってから、知人が「M市で飲む機会があったが,T子と言う女から、Nさん(私の名)の知り合いなら、今度自分の店を持ったから一度顔を見せてほしいと伝えてくれと、頼まれてきたぞ。気が向いたら寄ってやりなよ」と冷やかされた。

 

 

 T子さんのことなど全く忘れていた。彼女まだ水商売やっているんだ。変わっただろうなぁ。お祝いがてら訪ねてやってもいいんだがな――と思ったけど、車で行ってはたとえ一杯の水割りも飲めないし、電車に30分も揺られて行くのも億劫だし――なんて胸の内で言い訳しているうちに、T子さんのことは忘れるともなく忘れてしまった。私は、妻子ある身でもある。

 

 

 

 ――娘との楽しい昼食を終わり、レストラン向かい側の駐車場へ歩きながら、あの頃の表通りはもっと旅館や飲食店が密集していたけど、表通りから一筋はいったこの老舗料亭の通りは、とても閑静であったのに――。

 

 T子さんは、今もこの町のどこかにいるのだろうか。

 私と一つ違いだから、やはりおばあちゃんになっているだろうなあ。いい伴侶を得て世帯を構え、子や孫に囲まれているのかも。それとも生まれ在所へ帰っているのだろうか‥‥。

 

 

 (――時は流れる、ってことかな‥‥)呼べど帰らざる歳月をあきらめ、そっと懐かしみながら、娘の運転する車に身をゆだねた。 

彼岸のお墓参り

 明け方、尿意を我慢してうつらうつらしていたら、いやーな夢を見た。

 

 

 雨上がりのぬかるみを、昔ながらの荷車が近づいてくる。

 見ると、愛犬のチワワが体に荷綱をかけられ、泥まみれになりながら、懸命に荷車を引っ張っている。

 

 「マロン、お前が、なぜ?」と呼びかけたが、振り向きもしないで行ってしまった――。

 

 何とも痛ましい、やり切れない思いで目が覚めた。

 

 

 どうして、こんな夢を見たのだろう。老いぼれたせいだろうか。

 

 午前中はいやーな気分を引きずっていたが、そのうちにぬかるみの愛犬の姿が、在りし日の父が泥まみれになりながら田んぼの代掻きに励む姿に見えてきた。

 

 

 父母は、朝早くから夜遅くまで野良仕事に勤しみ、老いた祖父母を労わり養い、私ら男二人女二人の4人の子供を育んでくれた。

 あの頃の農家の仕事は、男も女も重労働の日々であった。

 

 私が就職して2年後、父は胃がんを患い44歳で亡くなった。

 

 農業を継ぐはずであった長男の私が勤めに出てしまったものだから、弟が私に代わって農業を継ぎ、母を助けて、幼い2人の妹を育て上げてくれた。

 

 母は長年の苦労の蓄積から病を得たが、何とか克服し90歳まで生き抜いてくれた。

 

 父も母も、老後の余生など楽しむ暇もなく逝ってしまったのであった。

 

 

 今私は、ささやかながら穏やかに余生を送らせてもらっている。

 傍ら、両親に親孝行できず、まことに申し訳ない気持ちを持ち続けているのである。

 

 

 秋の彼岸の23日午後、妻を誘い、生家の父母やご先祖の墓参りに出かけた。

 

 今さら詫びても仕方ないが、「おやじさま、おふくろさま、親孝行できずにごめん」両手を合わせ、改めて心静かに冥福を祈った。

まぼろし?の善行‥‥

 JR西日本の駅員さんが勤務中、酒に酔って寝ていた女性を救護室に連れ込んで乱暴したとしてクビになったあげく警察に逮捕されたという新聞記事が目に触れた。

 

 昔から「人の世に盗人と痴漢は尽きぬ」とか言われるが、いつの時代にも、良からぬ気を起こすやからは絶えないようである。

 

 新聞紙面では、善行(美談)記事と言うのも時々見かける。

 善い行い―道徳にかなった行い(広辞苑)が善行であろう。

 

 新聞記者になりたての頃、一日も早く、一本でもいいから、自分の書いた原稿を紙面に拾い上げてもらおうと、それこそ四六時中神経を張り詰めて、耳寄りな話題を漁っていた。

 

 自宅の最寄りの駅から、I新聞本社のあるT市までは、私鉄電車に1時間ほど揺られて通勤していた。

 

 ある日、社内に回ってきた専務車掌は高校の同級生。

「やあ、久しぶり。まあ、来いや‥‥」と社内が空いているのをいいことに、私を車掌室のそばへ誘った。

 しばらくはクラスメイトの近況などしゃべり合っていたが「お前、記者してんだったなあ。じゃあ、こんな話記事にならんか?」

 

 彼の話を聞いてみると、つい先日、特急に乗車勤務し、社内を回っていると二十歳前の女性客に、前席の男から嫌がらせを受けて困っている。助けてほしいと訴えられた。

 

 その中年男は酒気も帯びているようなので、彼は腰を沈めると男の耳元に「いい加減にしろよ」と周りに聞こえぬ低い声で注意した。

 彼は高校の柔道部で鍛えた大柄なたくましい体であるから、相手もビビったことであろう。

 

 

 念のため、その女性を車掌室近くの空きシートに案内し座らせ、女性の降車する駅まで見守ったという。

 

「いい話じゃないの。記事になるよ。」

 

 車掌の彼から、女性はI市の観光旅館○○の娘だと名乗っていたと聞いたので、私は早速電話でコンタクトを取り、本人を自宅に訪ねて事実を聞き「記事にしてもいいですね」と念を押す。

 

 

「あの時は本当に親切にしていただき、車掌さんには感謝してます。どうぞ記事にして褒めてやってください」と笑顔で送り出された。

 

 彼の所属する列車区の上司にも会って出来事を話すと「それは結構な話。会社の表彰の対象になるでしょう」と喜んでくれた。

 

 彼の顔写真を付けた記事は「親切な車掌さん」だったか、大きな見出しで紙面を飾った。

 

 

 ところが、1週間ほどたって、私を名指しで編集局にかの女性から電話がかかってきた。

 

 受話器を取ると「あの記事で迷惑している。」と、これはこれは大変お冠。あの日の笑顔と打って変わり、大いに怒っていなさるのである。

 

 なだめて話を聞いてみると、あの当日彼女は通っている専門学校を無断欠席、0市へ買い物に出かけた帰りの出来事だったので、ずる休みが親せきや先生、友人にばれてしまい、大目玉を食うやら冷やかされるやら大変迷惑している‥‥。(それが昭和30年代の世間一般の道徳意識であったろう。)

 

 「それは相済まぬ結果になって、申し訳ないことです。」こちらはとにかく丁寧に謝って電話を切ってもらった。

 

 

 善い行い――と思っても、それを公にすると、その波紋はあちらこちら思わぬところに広がるものだなあ‥‥つくづく反省させらた。

 

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[取材の合間(同行カメラマンが写す)]

 

 

故郷の廃家

 「故郷は遠きにありて思うもの‥‥」(後略)

 

 これは室生犀星の「小景異情」という詩の冒頭部分で、内容は寂しい詩なんだそうである。

 

 

 私のふる里は、市町村合併で今では私の住まいと同じ行政区域内――同じ市内である。

 指呼の間と言ってもいいほどの距離で、車をゆっくり走らせても二十数分で実家に着く。

 

 

 旧盆中の道路混雑を避けて先日、妻を同乗させ、墓参に里帰りした。

 

 実家の数百メートル前に、大きな真っ黒い和牛がどっかり横たわるような重厚な山並みが、昔のままの姿で出迎えてくれたようで、懐かしかった。

 

 近くても、ふる里はいいものだ。

 

 

 昼飯を馳走になり、実家を守る弟夫婦と世間話は尽きず、数時間あっという間に過ぎた。

 

 

 亡父の姉が嫁いでいたOO家(親戚)の後継ぎが先ごろ他界し、後には住む人もなく、閉ざしたままであるという。

 

 

 OO家は男4人、女1人の子供があったが、みんな県外に出て一家をなし、4男が家を継いで2人の女の子を授かっていたが早くに妻と離婚、男手一つでその娘2人を育て上げて嫁がせ、後は男のひとり暮らしであった。

 

 

 訃報を伝えても駆けつける兄たちの姿もなく、近くに住む濃い親戚だけで葬儀を済ませ、位牌は祖霊社(神式葬儀社)に永代供養をお願いしたという話である。

 

 

 子どもの頃、「〇〇兄ちゃん、遊んで‥‥」と、私より一つ年上の3男を訪ねると、奥の居間にどんと腰を据えた父親が「おお、〇〇(私の名前)来たか」とニッコリ迎えてくれたもの。嬉しかった。

 

 その父親の没後は、長男から次々と家を出て行ってしまい、末弟の4男がやむなく残って家を守っていたのであった。

 

 

 敗戦後の「家」の崩壊――時代の流れ、とはいえ、私どもの年代にはちょっと心寂しい気がする。

 

 

 帰りの道すがら、村の中ほどに立つOO家に目をやれば、玄関も雨戸も閉ざれたままであった。

 

 

 「幾年ふるさと来てみれば‥(中略)荒れたる我が家に住む人絶えてなく――」(故郷の廃家)を思わず口ずさんでいた。